小谷真理氏 エッセイ

15年目のテクスチュアル・ハラスメント

<現代思想>2013年11月号
 特集 ハラスメント社会ーーセクハラ・パワハラ・アカハラ・マタハラ…

■下記は著者の許可のもとに掲載させて頂いており、著作権は著者に帰属します。複製・転載は禁止します。


  2001年末のクリスマス当日に、筆者を原告とするテクスチュアル・ハラスメント裁判(平成10年(ワ)1182号民事訴訟)の勝訴判決が出て以来、はや12年。事件自体が起ったのは前世紀末の1997年であるから、以来15年が過ぎた。

 さすがにひと世代昔の訴訟なので、関係者以外はあまり事件を覚えていたり関心をもったりする向きは少なくなっているのではないかと考えていた。昨今アカハラ、セクハラなど、幾多のハラスメントが俎上にあげられているけれど、一度は『現代用語の基礎知識』にも取り上げられた「テクスチュアル・ハラスメント」すなわち文章上の性的いやがらせの消息は、いまどうなっているのだろう?

 ウェブ上で「テクスチュアル・ハラスメント」を検索してみたところ、裁判や、裁判に端を発して顕在化した「(男の)批評を(フェミニスト)批評する」というもともとのメタ批評の意味合いよりも、メールで頻繁に性的嫌がらせの文章を送りつけるというモバイル時代にふさわしいハラスメント事象のニュアンスが付加されてきているように見える。もっとも、この言葉のルーツをそもそも最初に発案したイギリスの文学批評家メアリ・ジャコウバスと、最初に使用された論考「このテクストに女はいますか?」についての説明は、いまなおウェブ上でも再確認することができる。

 ただし、この原稿を書いているさなか、たとえば、アーティストの宇多田ヒカル氏のtwitter上では、以下のようなつぶやきが見られる。昭和の歌手として一世を風靡した母・藤圭子氏の葬儀をめぐって宇多田ヒカル氏が事務所のブログ上に公開した文章が、父親の手になるものであるとの伯父からの「いちゃもん」に対して、彼女は次のように論駁しているのだ。

「私と父の文章を比較すれば、同一人物による文章ではないことは文体や構成、語彙の相違からしても一目瞭然です。(ぶっちゃけ私の方が器用にまとまった文章です。)これまで私の名の下に発表されたメッセージは全て一言一句、私によるものです。」

 うーん。宇多田氏のような才能のあるアーティストでも、こんな言われ方をするのか、と呆れてしまう。というか、いまだにこういう言説がでてくることがあるのか。

 女性が自分自身の意見を文章で書いたり表明したりすると、「それは本人のものではない、身近にいる男性の手になるものだ」、あるいは「女が書いたのではない、男が書いたにきまっている」と非難するのは、女性が創造的なことなどなにもできないとする、女性が比較的頻繁に受ける誹謗中傷の典型である。そしてこれこそは文章上の性的いやがらせ、つまりテクスチュアル・ハラスメントなのだ。

 もちろんステレオタイプの言い草によりかかってしまうこと自体、両者の文章を読み分けられない、読解力不足・偏見力過剰の現れであり、こういうステレオタイプに依存する人々にとって、女とは、相変わらず男の言っている事を鵜呑みにし、ただ媒介する無色透明な存在にしか見えていないのだろう。

 21世紀の現在でも、こうした言いがかりが未だまかり通っているのならば、テクスチュアル・ハラスメントの問題系探究は、まだまだ活躍の場があるらしい。テクスチュアル・ハラスメントのコンセプトと実例については、かつてわたし自身が編訳したジョアナ・ラス『テクスチュアル・ハラスメント』(インスクリプト)を参照いただきたい。

 本エッセイでは、裁判後12年あまりの間、同事件について時折見かけた反応を振り返りつつ、そこで浮上した問題点を再考し、理論を発展させてみたい。というのも、一定の時間がたたなければわからなかったことがでてきているからだ。

 すでにあちこちに書いてきたので重複するが、テクスチュアル・ハラスメント事件の概要は次のようなものであった。

 1997年10月16日に刊行されたサブカルチャー系のリファレンス『オルタカルチャー』(出版:メディアワークス、発売:主婦の友社)のなかで、項目執筆者・山形浩生により、わたし小谷真理自身の名前が「巽孝之(夫)のペンネームであり、本人は男である」と断定する記述が掲載された。同書が刊行された後、度々抗議をしたものの誠意のある回答が得られなかったため、名誉毀損として法廷で争うことになり、裁判自体は1998年初頭から2001年末まで約4年間継続し、最終的には原告勝訴で終わっている。被告は、記述がウソである事を認め、小谷真理ことわたしは、そのペンネームの所有権をとりもどしたわけである。



●脱性差化という問題

 この事件は単にペンネームの使用者を取り違えたというだけの問題ではなく、根深い女性差別と関連性があった。というのは、問題になった文章には、わざわざ「小谷真理という男」と性差を断定する記述が含まれていたからだ。

 しかしながら、当時から現在まで、あの事件がいわゆる性差別的な事件である、とするニュアンスをかき消そうとする姿勢はけっこう根強い。しかも、あの問題が一発で理解でき、あれが性差別だということがわかるのは、おもに女性であるという事情は変わっていない。男性的な価値観を内面化した人々の間では、簡単に理解(納得)しにくいようである。性差別的な言説を直視したり、考えたりすることは、意外に面倒くさく、心理的困難をともなうらしいのだ。

 そのせいか、この事件自体を脱性差化しようという姿勢は珍しくない。

 この原稿を書いている2013年10月中旬現在も、ウェブのウィキペディアにある「小谷真理」の項目上に、この脱性差化への意志を表わすとおぼしき記述がでている。引用してみよう。「1997年に発売された書籍『オルタカルチャー―日本版』内のコラムにおいて、SFファンダム出身の評論家の山形浩生から、『小谷真理の著作は、パートナーの巽孝之が代筆している(ほどそっくりである)』と揶揄され、小谷は『謝罪広告及び損害賠償請求』の訴訟を行い、2001年に勝訴した」。

 被告・山形氏の当該記述は、小谷と巽、ふたりの執筆者がいて、ふたりの文章が似ている事を表わすレトリックだ、というのである。とすると、小谷という執筆者の実在性は最初から、とくに疑われてはいないことになる。

 これは正確な報告とは言えない。ウィキペディア記述者自身の偏見が作用した奇妙なズレというほかない。なぜなら、問題となった『オルタカルチャー』の項目は、小谷真理という人物は実在していない、と述べたものだったからだ。小谷真理は巽孝之の筆名であり、したがって小谷真理は男である、とはっきり断定している。小谷真理という女性執筆者の実在性をはっきりと否定しているのだ。だからこそ、ウソの記述によって女性執筆者の実在性を否定した、という判決になったのであり、たんに「似ている」という隠喩であれば訴訟にすらならなかったであろう。ではなぜ、裁判後12年も経過したこの期に及んでなお、実在の女性を非在としてしまった言説、つまり女性執筆者の存在を全く排除してしまった言説がそもそもの訴訟の根本だったという事実を抹消しなければならないのだろう?

 山形氏だけではなく、ウェブで興味深い疑義を呈している意見があったので、見てみよう。当該箇所では、小谷真理の筆名は男性である巽孝之であるとしたうえで、文章全体で小谷真理名義の著作を貶しているから、女性差別にはあたらないのではないか、という意見だ。つまり「男が書いた」が、「それはよいものではない」と貶めているから、女性差別にはあたらないのではないか、というわけである。

 この指摘は、貶されようがなんだろうが創作する能力がない、と、女性執筆者から創造性を強奪しているところで充分差別的なのだとも返答できるが、そもそも当該部分で、女性執筆者である小谷真理が非在である、と受け入れてみた場合、山形氏の文意は、非常にストレートに理解されるものになることを指摘しておこう。

「男性が書いているから、フェミニズムの著作としては現実性に欠け、よいものではない」という文意になるからだ。フェミニズムの著作を男性が書く事には一定の困難が伴うというのは、よく言われることである。したがって、男性学者の巽孝之がアカデミズムの分野でいくらフェミニズム批評を学習したところで、彼は男性なのだからフェミニズムの現実性から遊離したものだ、というのが真の文意なのだとしたら、いささか低水準の本質主義的理解でしかないとはいえ、一定の筋が通っている。本当に、それが男性執筆者による著作だったならば。したがって、「男が書いた」ことと、「よい著作ではない」という流れは、切り離して捉えるべきものではなく、論理では繋がっていたと考えてみてはいかがだろう。

  このように、執筆者の山形氏が、小谷が本当に巽孝之だと思い込んでいたら、あの文章はずっと単純な内容になる。フェミニズム批評は女性が書いているからリアリティがあり信頼性がある。男性である巽孝之がフェミニズム批評を書いても信憑性がない……なんと実にわかりやすい主張になるではないか。最初から山形氏は巽孝之しか目に入っておらず、女性執筆者など実在してはいなかった「はず」なのに、非在のはずの小谷が登場したので面倒なことになったのである。ストレートにわかりやすい男のロジックに、存在しないはずの女が介入すると、話はとたんにわかりにくくなる、という例は、少なくない。

 かくして論理が混乱したあげくにひねりだされるのが、あの『オルタカルチャー』項目記述は「女性差別にまつわるものではなく、シャレや皮肉、冗談といった(文学上の)批判として書かれたものなのだ」という理屈である。

 ここでくりかえそう。ウィキペディアの「小谷真理」は「SFファンダム出身の評論家の山形浩生から、「小谷真理の著作は、パートナーの巽孝之が代筆している(ほどそっくりである)」と揶揄され」たのだと記されている。

 山形氏の原文が意図した小谷真理の「非在」という断定が「実在」という前提へとズラされているのは一目瞭然。結果的にでてきたのは、両者の著作は「似ている」「そっくりである」の文意である。これをシャレや冗談とは捉えてみたとしても、その笑いの内容は、「仲のよい夫婦を冷やかした」という牧歌的なほのぼのニュアンスではなく、項目全体のコンテクストから読み取ると、女の学習=猿真似をめぐる批判であり、パートナーの猿真似をする「女」を嘲笑しようとする姿勢が浮かび上がってくる。それもまた根深い女性蔑視の構造によるものだ。そのことは、陳述書や前述の編訳書等でさんざん指摘してきたのでここでは割愛するが、問題は、シャレや冗談という言い方を使えさえすれば、女性差別ではないと言わんばかりに、問題をひたすら脱性差化し、女性差別を隠蔽しようとする振る舞いである。これはいったいどういうことか。

 まるで、山形氏が女性差別事件を引き起こしたと言ってほしくないかのように響く。あるいは、女性差別を行うということ自体が、口に出してはいけないタブーであり、そんな事実があったとしたら抹消しなければいけない言説空間があるかのように聞こえないだろうか? それは歴史修正主義の論理と酷似する。



●テクスチュアル・ハラスメントと解釈共同体

 性差別をシャレや冗談だ、とする矮小化もまた、実によく使われるステレオタイプの理屈なのである。男性的価値観を共有する共同体の中で、「女」を貶める方法として、「笑い者にする」というのは、非常にポピュラーな方法なのだ。よってたかって、その女がいかにバカであるか、恥ずかしい存在であるのか、笑いものにすればよい。女は侮蔑の対象として、徹底的に辱めればよい。このシナリオにしたがって、一定の解釈共同体のなかで構成員が総掛かりで、ターゲットを攻撃する、という例は、メディアという背景(共同体)ではよく見かけるハラスメントである。

 笑いものになる材料自体は千差万別だが、重要なのは女を貶める価値観を、その共同体が共有していればよいことだ。その価値観は暗黙の了解事項となる。

 実例をあげよう。今から10年前、2003年2月に『まれに見るバカ女』(宝島社)というたいそう煽情的なタイトルのムックが刊行されたことがある。同書は、「各界の"淑女"60人の妄言、冒険を斬り捨て御免!」と表紙に謳った読み物で、政治家・作家・芸能人など、当時各界で目立つ女性を取り上げて、彼女たちをあげつらうエッセイを掲載した。

 タイトルを目にするだけでも、有名女性を取り上げて無責任にあれこれ述べてみたいという欲望にのっとった、まさにオヤジ的祝祭本のひとつであろう、と類推される。上品な読者にはむかない、どぎつい内容のムックだが、刊行された時期こそちょうど「バックラッシュ」のころにあたっているから、ネオリベ時代に展開された「ジェンダーたたき」「女たたき」「フェミニストたたき」の気分にマッチする形で、一定のセールスを記録した。ひとつの「当たり」が出れば柳の下の泥鰌をねらうのは、エンタテインメント界の常。女性を貶める内容に、生真面目な女性団体から抗議があったにもかかわらず、半年もたたないうちに第二弾『まれに見るバカ女との闘い』が出版された……が、さすがに二番煎じが飽きられたのか、後が続かなかった。

 テクハラ分析の対象として、この本全体を俎上にあげてもよいが、前項との話の続きで、わたし自身の裁判について言及している部分を見てみよう。二冊目の巻末だ。執筆者は大月隆寛氏(「小谷真理vs.山形浩生事件(笑)、はこう読め!」http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/20030527/p1)。

 まず、大月氏は、事件の資料を読み、執筆する事自体に生理的な嫌悪感を覚えた、と編集部に恨み言を投げかけながら、事件の原告であるわたしに、シャレのわからないフェミニストが法廷闘争にフェミニストのロジックを持ち込み、権威を笠に着て(被害妄想的な)フェミニストの主張を拡大している、と文句をつけている。そして、大月氏自身の「いちゃもん」について、裁判を起こし、訴えてみろ、と、なにか反応を期待してか、物欲しげにラストを締めくくっている。以下、わたしが大月氏を特に相手にしない理由を述べる。

 大月氏の文意は、男性中心の価値観における「女とはこうあるべきだ」という妄想にしたがって、対象がそれにあてはまらないからと攻撃する、所謂テクハラの典型的な内容となっていて、とくに目新しいところはない。使い古された妄言の洪水でまったく読者に知的な刺激を与えないという罪、あるいはそうしたステレオタイプを欲するオヤジ読者層の俗情にあらかじめ魂を売り渡しているという罪以外は、特に犯罪的な部分も見当たらない。中心になっているのは、大月氏の脳内妄想の女性像(脳内小谷)がどのようなものかであり、脳内女性像をたたいてみせることによって、小谷はよくないものだ、というイメージを読者にアピールしようとする言説にすぎない。興味深いのは、わたしを野放しにしたといって、わたしの夫に愚痴をたれているところ。編集部に頼まれたから一応書いてみたと責任を編集部に転嫁し、わたしの夫に、甘ったれた共犯関係を求め、インタビュー記事にほろっとしてみせ、とくに必要とも思えない威嚇をしてみせる大月氏の筆は、この文意から「お人好しのオッサン」とでも言えそうなトホホぶりが伝わってくるだけだ。

 斬新さとはほど遠い内容のなかで、唯一注目できるのは、男性らの共同体が女を攻撃するとき、どのようなプロセスをとるかが見て取れること。

 女性を「いじる」ことで金を儲けようという姿勢の編集部の協調ラインにあわせようとするかのように、大月氏はあの事件を脱性差化し、それが女性差別のものではない、と断定する。しかし、大月氏は、ターゲットであるわたしのことを二カ所に渡って「まんこ」、すなわち「女性性器」を表わすタームで罵っている。他の人物らにはとくにそのような付言はない。教育者でもある民俗学者が女のことをあげつらうのに、わざわざ女性性器に代替させる必然性は、同エッセイの文意の流れを追っても特にない。しかし、この短い文章の中で二度、彼は攻撃目標に、女性性器のレッテルをはりつけるのである。これはなぜか。おそらく、彼の妄想する脳内ホモソーシャルな共同体を意識しているせいなのだろう。彼は共同体の「男」たちにどう評価されるかを意識しているのだ。

 イブ・セジウィックが提唱したホモソーシャルの概念は、女嫌いや同性愛者嫌いを媒介にして絆を深める男同士の連帯をさす。ホモソーシャルな共同体において、女性は人格をもつ人間とみなされず、交換されるモノとして扱われ、女嫌い(ミソジニイ)は簡単に女叩きの構図に移行する。大月氏の文章は、編集部から頼まれたから仕方なくやっている、というポーズをとることにより、彼の想定する共同体の価値観に要請されて書かれたことを示し、共同体で選択されたターゲットは、まず「女性性器」と看做される。大月氏はこの女性性器をターゲットとして攻撃することにより、共同体に「男として」顔向けできる、という構図が浮かび上がってくるのである。

 個人的な執筆者が個人的に興味ある話題をエッセイに書くのではなく、大月氏は共同体のために書くのだ。それはもともとホモソーシャルな共同体で、特定の女性を攻撃する行為自体が商品価値を帯び、大月氏自身の原稿料を保証する。このように小さな男性共同体の構成員の間で、何らかの女性の攻撃目標が設定された場合、共犯者たちは犠牲者をより傷つけた方が共同体内部での順位が上がるというルールに従って行動せざるをえない。共同体内部の序列を意識すると、勢いその文言は攻撃性を増し、女性を貶める表現はより暴力性を増す、つまり苛烈をきわめることになる。集団で行われるリンチや暴行事件に加担する加害者が個人の資質以上に犠牲者に対してより残酷にふるまうことになるのは、軍隊やマフィアなどの犯罪事件をみれば自明であろう。くだんのエッセイで、大月氏もまた、彼の妄想する共同体での序列を意識し、「男のメンツ」をかけて蛮勇をふるうべく努力している様子がうかがえるのである。

 それが成功しているかは別として。



●女性の解釈共同体と対抗言説

 『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』(2006年、双風舎)へ寄稿した「テクハラとしてのバックラッシュ――魔女狩りの特効薬、処方します。」のなかで検証した『新・国民の油断』同様、『まれに見るバカ女』と『まれに見るバカ女との闘い』は、テクハラ大賞を受賞しそうなほど、文章上の性的嫌がらせに満ちあふれたおじさんたちの愉快な書籍であることは、大月氏の文章を見ても明らかである。どちらも、脳内妄想の女を捏造し、これを叩く事により、「女」全体のイメージを下降させるというやり方をとっている。

 やってもいないことをやったとする冤罪で女をしめあげる、という歴史は、魔女狩りを始め、かなり使い古された手である。だがいまだに、女を叩きたいがためにウソを捏造する輩はあとをたたない。というか、ひょっとすると、彼らは自らがウソをついていることにまったく無自覚なのではないか。自らのつくりあげた脳内妄想が、いつしか彼らの現実感とすりかわっているのではないか、とすら思えるのである。

 テクスチュアル・ハラスメントを分析する事とは、そうした男たちのファンタジーを解明するためのヒントになるだろう。ではテクハラをなくすために、そういった言葉やイメージだけを排除すればよいのか、というとそういうものでもない。言葉狩りは根本的な問題を解決する手段にはならない。

 それよりも、女性を貶める男たちの共同体ではない、別の解釈共同体を形成していけばよいのではないだろうか。昨今そうした流れはかなり一般的になってきた。

 たとえば、男性のまったく介在しない女子会が増加しているのは、その徴候であろう。テクスチュアル・ハラスメント裁判時には、公判が開かれる毎に、事件に関心がある人々のミーティングが開催されていた。要は裁判でなにをどういう手順でやっているのか、弁護士さんの解説を聞いたり、互いに議論したりする場を設定していたのだが、女子の多い場の雰囲気とノリは、なかなか捨て難い味わいで、裁判中より日本ペンクラブ内部に女性作家委員会が結成され、裁判終了後も、終わることなく、またSFファングループのひとつとしてジェンダーSF研究会が発足した。執行部は基本女子である。ここが母体になって、アメリカは中西部のウィスコンシン州マディソンを本拠地とするフェミニズムSF大会ウィスコンと提携し、ジェンダーについて深く考察したSF作品を讃えるためにセンス・オブ・ジェンダー賞を毎年選出する活動をスタートさせた。

 もともと、ウィスコンは70年代から開催されており、ジェンダーSF文学賞たるジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞が91年から設置されている。

 ジェンダーSF研究会は、ウィスコンと親交を結び、連携をとっている。活動内容の基本は文学賞の運営と、一冊の本について徹底的に議論するという読書会、映画鑑賞と批評会、食事会などの催しだ。

 要はリラックスして共同作業を行う女子オタクのクラブ活動的な団体だが、不思議な事に、これらのミーティングにひとりでも男性が入ると、(それがどんなに人格者であっても)雰囲気がガラっと変わってしまう、という体験をした。男女の文化的な差異は、どんなに意識しても逃避し得ない根深いものだということを、悟らざるをえなかった。こうした経緯があるため、イベントや文学賞の選考会はともかく会員は男子抜きが原則になり、そのせいか女子間の意見交歓は活発化し、興味深いコンセンサスが得られるようになってきた。なによりも男性とは異なった女性的視座が少しずつであるが顕在化し始めたのである。

 女性の共同体は、暗黙のうちに女性にとって不愉快なものを排除し、かなり自立的に女性自身の共通見解を構築するようになっていくという貴重な経験をした。

 女性の解釈共同体という文脈を得ると、女性差別的なテクスチュアル・ハラスメントは明確に顕在化する。そしてなぜそれが不愉快かということも、共同体内部で言語化される。男性たちの共同体があるかぎり、テクハラ自体はなくならないだろう。逆の見方をすれば、オヤジ的ホモソーシャル共同体が、一面では一国家の高度成長期を強力に支えたことは事実であり、それが女性差別的コンセンサスをかけがえのない駆動力に据えてきたことも事実だからである。だが、もはやそうした歴史すら免罪符の価値もない。

 テクハラをなくそうとするスローガン以上に、それがなんであるのかを理解し討議しうる言説空間を構築していくこと。それが、21世紀テクハラ理論への糸口になるのではないだろうかと考えている。





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