b.精神的な面。


 aに記したように、創造者としての社会的地位を奪われ、読者に対して虚偽を働いているかのような人物として読者から認知されること、自分の業績を自分のものとして評価されないことは、わたし小谷真理こと巽真理本人がたいへんな精神的苦痛に苛まれることです。自分が自分自身の作品の創造者の地位を奪われることなのです。刻苦勉励で自作を作ろうとも、創造者としての社会的評価を受けられぬということは、作品自身にどのような評価を下されようとも、それを受け取れないことになってしまいます。頑張れば頑張るほど自分が評価されず、自分への評価が他人のものになってしまうということは、創造者にとっては大変な屈辱であり、虚無感に苛まれることなのです。

 これが悪質なのは、仮にわたしが反論する文章を書き、言論で対抗しようにも、その文章すら「巽孝之が書いた」と読者に思われてしまうところにあるのです。つまり、小谷真理こと巽真理は、言論に参加する権利を剥奪されてしまったということなのです。これは、筆者と筆者が誠実に接したいと思う読者との間に結ばれている信用関係を破壊する暴力行為に他ならないと考えます。ひとたび読者に偏見をもたれてしまうと、回復するのはとても難しいのです。

 それは、本件が社会的偏見と結び付いているだけになおさらです。

 『聖母エヴァンゲリオン』という作品に対する評価は、人それぞれですから何を言おうとそれは評者の勝手でしょう。『オルタカルチャー』自身に書かれている『聖母エヴァンゲリオン』に対する被告・山形浩生の文章は、「『聖母エヴァンゲリオン』を山形氏がどう読んだか/或いはどう読めなかったか」をストレートに表現するもので、それ自体評者の読解力のレベルを示すものでした。しかし、証拠もなく真の実作者を抹殺する権利は、ないはずです。

 それでは、なぜ彼は「わたし小谷真理こと巽真理を男」と断定し、「小谷真理という筆名が巽孝之のものだ」と断定し、わたしを『聖母エヴァンゲリオン』の創造者としての地位から追い払おうとしたのでしょう。そのような虚偽を捏造してまで、なぜ創造者としてのわたしを抹殺しようとしたのでしょうか。その動機とはなんなのでしょう。

 これは通常著述家であるなら、まず確実な実証性がないかぎり、公のメディアで広言などできない、きわめて慎重にしなければならないほど逸脱した内容であると考えるのが常識です。それを、まったくの虚偽であるのに実証抜きで提出したのですから、これは悪意に満ち常軌を逸した非常識行為といっていいでしょう。

 山形氏は、1983年から1984年にかけてSF同人誌<トーキング・ヘッズ>で月一回の読書会(毎回十五人ほどの出席者)で夫・巽孝之と毎月顔をあわせていました。わたしとも、同会合で一度会ったことがあり、わたし小谷真理こと巽真理と、巽孝之がまったくの別人であることを認知しておりました。それにもかかわらず、わたしの創造者としての存在を抹殺し、実在性すら疑われるようなことを書き、その社会的地位と評価を剥奪するために虚偽を捏造し、これを流布したのにはなんらかの事情があると考えました。

 その事情は、簡単にいうと女性に対する根深い侮蔑心や偏見であり、女性に対する差別意識だと思いました。山形氏は、かつて「下手な芸でも女がやれば許される」と書いたことがありました。インターネットでも「でも、フェミニストがなんと言おうと、女どものほうがかえって自分たちをバカにしきった小説や映画や雑誌を平然と(いやそれどころかむさぼるように)受け入れてしまってるのも事実でしょ」と女性への侮蔑を露骨に著わしております。彼には明らかに女性に対する悪意があります。

 平成9年11月7日付(株)マガジンハウス書籍出版局宛に「(3)ご指摘の箇所は、小谷真理氏と夫である巽孝之氏が別人であるということが、本書の主要購買層である「オルタカルチャー」(90年代非本流文化)に親しい読者の間では広く知られているということを前提とした、山形氏独特の表現である」とあります。つまり、問題となる表現の前提は「巽孝之が小谷真理の夫である」ことだということです。「巽が夫」という前提があるから「小谷真理は巽孝之のペンネーム」であり、「小谷真理は男」だと言っているのです。しかも「小谷真理と巽孝之が同一人物であるかのような無用の誤解」とあるように、二人が同一人物ではないことは十分に承知したうえです。

 以上を考え合わせてみると、「巽孝之と小谷真理は別人で、夫婦である」ことが前提だから、「小谷真理は巽孝之のペンネーム」、「小谷真理は男」という事実無根の表現がでてきたことを示します。

 次に、平成9年12月26日株式会社メディアワークスと山形浩生氏から原告代理人梓澤和幸氏にあてて出されたファックス文書では「ふたりが夫婦であることが広く知られ周知の事実であるから、レトリックとして読まれると考えた」とあります。つまり、「小谷真理と巽孝之が夫婦である」から、「小谷真理が巽孝之のペンネーム」で「小谷真理が男」という表現がレトリックとして読まれると考えた」というのです。

 平成10年2月20日からインターネット版『オルタカルチヤー』に掲載されている「お詫びとご報告」の中では、「小谷真理と巽孝之は私生活においては夫婦であるが、全くの別人物であるにもかかわらず、小谷真理氏の文章からは、あたかも両者が同一人格であるような、巽氏との類似性が感じられるという認識を(この認識は、ひとり山形だけのものではなく、ある程度広まった認識であるとも考えています)を誇張するため、執筆者・山形浩生があえて文章上のレトリックとして書いたものです」。とあります。

 ここでは(1)小谷真理と巽孝之は夫婦である。(2)小谷真理の文章は巽と同一人格のような類似性が感じられる。(3)小谷真理は巽孝之のペンネームであり、小谷真理は男である。という論理で作文が成されております。(1)は事実で断定。(2)は印象。(3)は虚偽で断定。ということは、(1)の条件が前提になっている印象(2)から、(3)が断定されたということです。(1)の小谷真理と巽孝之に夫と妻をあてはめてみれば、(2)(3)の意図は明らかです。(2)妻の文章は夫と同一人格のような類似性がある。(3)妻(の名前)は夫の筆名である。これは、「夫婦という事実がひとつの印象を作りだし虚偽を産むにいたる」という社会的偏見を産むプロセスの典型であります。でなければ、被告らが夫婦であることをこれほど強調する理由は他に考えられません。つまり、作品の価値を判断する時に、あらかじめ「夫婦である」という情報が影響をおよぼしている一例です。作品の内容ではなく、外因=夫婦であることを問題にしているのです。今回のことが「夫婦」にしろ、「という男」にしろ、被告らはあまりにも「妻」とか「女」とか性差に拘りすぎ、女性に対する偏見をむき出しにしていることを示しています。山形浩生氏が今回行った虚偽捏造の流布という逸脱行為が、こうした妻や女に対する偏見に根差している以上、これは女性差別行為と言えます。

 そもそも「夫婦」とは、それから「女性の仕事」とはいったい何を意味するのでしょうか。巽孝之と小谷真理が法律上はともかく、メディア上に限っては長く夫婦別姓を貫いているのは、一定の文化的関心を共有する共同研究者同士ではあっても、いやそうであるからこそ、相互の作品を各人独自の立場から忌憚なく批判し合うことのできる、それぞれ独立した人格をもつ批評家であるのを敢えて強調するためにほかなりません。そもそも、現代において評論家の価値は、作品の独自性、つまり固有性にあり、そのオリジナリティが重大な評価の対象になります。わたしはかねてから、自分の作品の固有性をはっきりさせるために、どこからどこまでが他人の著作の引用で、どこからどこまでが自分の意見であるかを、膨大な参考文献を付して誠実に示してきました。「小谷真理、あるいは〜」のなかで山形浩生氏が「引用まみれで人を煙にまこうとしている」と記述しておりますが、著述家で自分の作品の固有性が社会的にどう評価されるかに敏感であるなら、他人の考えと自分の考えの間に明確な境界線を引くのは当然の行為です。仮に先行研究が存在する分野であるならば引用することによって自分との差異を明確にする以外、どのような手段があるというのでしょうか。その意味で、わたしにとって「引用」は「知的誠意」の証明です。ところが、そのように簡単な常識すら理解できない山形氏にとって「引用」は「知的劣等感刺激装置」としか映らないようなのです。しかし、くりかえしますが、わたしは他人のものを自己のものと偽るつもりはありません。ましてや、本質的に別人格の人々を同一視して平然としていられる神経も持ち合わせません。

 ここで、わたしが特に強調したいのは、わたしがあえて自分の考えと他人の考えの間に明確な線を引きたいと思っていた点です。それは、一般に「女性」が何かを書いたり発表したりすると、男性の猿真似だ(つまり女性に独自なものは書けないとする偏見)と貶められてきた歴史があるからです。したがって、女性の著述家としては、この点をよりいっそうはっきりさせなければならないと考えているのです。その点で、わたしは他の引用文献同様、巽孝之の著作を引用・参照する場合には、常に出典を明らかにし、必要があれば自分の意見とどう違うのかをかなり厳格に記述してきました。

 したがって、小谷真理と巽孝之について「小谷真理氏の文章からは、あたかも両者が同一人格であるような、巽氏との類似性が感じられる」と具体的な例証抜きに断定されてしまった場合、まだわたしの著作を読んだことのない人々のあいだに誤ったイメージを流通させることを示します。もちろん、具体的な例証などできないのは当然のことでしょう。類似の部分など存在しないからです。それとも、わたしが巽孝之の盗作でもしているとでもいう具体的な証拠でもあるのでしょうか。しかし、そのような嫌疑の場合でさえ、わたし小谷真理こと巽真理という「創造者である主体」はあくまで保証されているわけですから、「小谷真理は巽孝之のペンネーム」という文章より、まだましなのです。この点において、彼らは依然、「小谷真理が実作者ではない」ことを現在まで主張し続けています。小谷真理と巽孝之が別人で夫婦であることを知った上、「妻」の文章が「夫」の文章に似ている。それは妻の筆名が夫のものだからで、実は「妻」は書いていなかった――被告の主張は、『オルタカルチャー』出版から現在まで変わっておりません。

 それでは、なぜ、「妻」の文章だけが取り沙汰され貶められるのでしょう。なぜ、作品の創造者である「女」が抹殺されて、夫や男のみが創造者だと言われなければならないのでしょう。小谷真理の本来の性である「女性」をねじまげなければならないのでしょう。なぜ逆の論理は成立しないのでしょう。被告たちは「小谷真理の文章は」とのみ主張を繰り返し、「巽孝之の文章は」とは考えもせず、具体的にどこがどうという実証もせず、「そう感じたから」と自らの個人的感想や印象のみを理由とし、そして「女」や「妻」を抹殺していくのです。

 これこそ「妻」あるいは「女性」に対する恐るべき偏見そのものです。「妻の筆名を夫のものである」とし、「物を書いている妻の正体は実は夫だ、男だ」とか言い続ける。ここでは「夫の書くもの」は妻の作品に似ているだのなんだのということは問題にされないし、夫の名前を筆名とも、女性だともいうことはありません。

 これは、はっきり女性差別表現であり、女性に対する侮辱です。これはレトリックなどではなく、女性を貶める女性差別の典型的な一例であり、紋切型表現なのです。

 被告らは、ともにこの女性侮蔑表現が一般の人々にも通用すると考えたと言います。なるほど、女性の著述家や創造者たちは抑圧されてきた歴史があります。だからこそ、読者もすぐに信じてしまう社会的状況があり、被告らは読者がそう信じ込むと考えて行なったのでしょう。

 これが一般にいかに根強い偏見であるのか、いかに、西欧を始め世界的に幅広い社会状況で女性の創造者たち、女性著述家たちを貶めるための紋切り型であるのかは、次の著書が示しております。

 1983年に、アメリカの女性作家でワシントン大学教授・ジョアナ・ラスが、How to Suppress Women's Writing という研究書を出しております。『女性の書いたものを抑圧する方法』というタイトルを持つ書籍の表紙には、次のような「女性の書いたものを抑圧する方法」が箇条書きになっておりました。


彼女は書いていなかった。(書いたのは明らかに、彼女なのに)。

彼女は書いたけれど、書くべきではなかった。(政治的で性的で、男性的で、フェミニスト的な著作だからだ)。

彼女は書いたけれど、何を書いたか見てみろ。(寝室、台所、家族、女そのもの)。

彼女は書いたが、生涯にたった一作。(『ジェーン・エア』、哀れなことに一生に一作それだけだ)。

彼女は書いたが、しかし本当の芸術家ではないし、本当の芸術でもない。(スリラー、ロマンス、児童文学、それにSF!)。

彼女は書いたが、手伝ってもらった。(ロバート・ブラウニング<女性詩人エリザベス・バレットの夫で詩人>、ブランウェル・ブロンテ<ブロンテ姉妹の弟>ら身内の男の助け)

彼女は書いたが、彼女だけは例外だ。(ヴァージニア・ウルフ、但し夫レオナルドの助力はあった)

彼女は書いたが、しかーし!‥‥。


 ヴァージニア・ウルフやブロンテ姉妹など多くの高名な女性作家ですら、夫や弟が書いただの、夫の助けがあったといっては貶められ、こうした偏見に悩まされてきた長い歴史があります。反対に男性の作家たちにこうした誹謗中傷は存在しません。それどころか、内助の巧があったと称えられてすらいるのです。その男女の非対称的な差別的考え方がいまだに根強く残っている以上、そういう社会にリファレンスの形で、しかも実証ぬきで「周知のごとく」というあたかも事情通を装うふりをして「妻(の名前)は夫の筆名、女性著述家が実は男性だった」という情報が流布されれば、大変なダメージを被るのは目に見えています。知っていてやったとなれば、あらかじめ、この効果をねらったうえで、執筆・掲載したということなのでしょう。そして、現在もインターネット上で「お詫びと訂正」という文章のなかで、いかにも詫びる風を装って、同じ主張を繰り返しやり続ける。最初から現在まで、彼らの主張は根底において女性の著述家を貶める女性差別である点では、いささかも変わっていないのです。

 「SF」や「小谷真理、あるいは〜」の項目には、小谷真理と巽孝之が夫婦であるなどと一言も書いてありません。しかし、最初の被告らの回答書は現在まですべて一貫して「夫婦だから」が前提と言い続けている以上、問題の箇所が女性に対する偏見から発生し、女性に対する社会の偏見に向けて発せられているのは、明らかだと考えました。

 これは、「妻」の名前など、夫の所有物だ、女の著述者などありえない、男が書いたに決まっているという女性侮蔑表現以外のなにものでもありません。それは、逆の表現に関することが見当たらないことからもよくわかります。「巽孝之の著作が〜」と書かれないのは、もともと一連の表現が女性に対する偏見から出てきていて、男性に対する偏見からではないからです。そうした女性に対する偏見から、今回の事件が起こったのだと、考えました。

 「妻」や「女」の著述家など男社会では抹殺されてもかまわないという、このような女性に対する憎悪、憎しみは戦慄を禁じ得ないものでした。女性から女性自身の権利を奪い続けて平然とし、今もって反省の色さえありません。わたしは、そうした女性に対する憎悪をぶつけられたのです。

 女性の著述家は、ジョアナ・ラスも指摘するように、なにかというと「女にできるわけがない」とか「一人では何もできない」、「男の真似」という社会的な偏見にたえず悩まされ続けているのです。そして、自分自身の名前を名乗り、著作に多くの注釈を付け、夫との意見との相違をきちんと書くなどの細心の注意を払ってもなお、このように根も葉もない虚偽と憎悪をぶつけられるのは、本当に迷惑であり、無礼だと憤りを感じます。

 夫は妻ではなく、妻は夫ではなく、双方共に個人の名前があり人権が認められているのです。また、女性が物を書き、自分の書いたものを自分自身の名前で発表して何が悪いのでしょう。

 夫婦を同一人物と断定し――そして本件の場合――妻の側の実在性を否定し妻の著作物を夫のものであると断定する行為は、妻の存在も妻の所有する妻自身の著作物に関する権利と責任も、あたかも男性である夫に帰属するものであるとする、大いなる偏見でもあります。それを公のメディアに流した責任はたいへん大きいと考えます。

 被告の執筆者は、そのような女性に対する大変悪質な紋切型の蔑視表現を「レトリックである」とするばかりか、「読者も当然(それを)レトリックとして読む」者として、読者自身も女性蔑視表現に理解を示す女性差別主義者になるよう強要している点で、社会的責任を免れられないと考えます。

 版元もまた、「小谷氏と巽氏が夫婦であることは周知の事実であり、山形氏の原稿を掲載する際には、ご指摘の表現が読者の間で、レトリックとして読まれると考えておりました」と記述しており、筆者・山形浩生氏同様、女性であり著作者である小谷真理の社会的地位を無効化し、侮辱し、読者を女性差別主義者であると見做した上で、臆面もなく女性蔑視表現を一般に流布することをためらいません。このような傍若無人なふるまいには本当に深い憤りを感じます。



六、結語


 以上を概観すればわかるように、『オルタカルチャー日本版』が出版されてから、SF&ファンタジイ評論家である小谷真理は、心痛・交渉・調査などにより膨大な執筆時間を奪われ、心労を強いられ、その経済的精神的被害は、執筆生活を圧迫しております。

 これらを鑑みて、現在流通している『オルタカルチャー日本版』の該当箇所の早期撤回、及び同書刊行から撤回されるまでの間の、原告に対する名誉毀損事実による精神的経済的被害に対し、関係者のご理解と、被告人らの誠実なる対応を求めます。



BEFORE

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