五、損害について

a.経済的損害。


1)著述業における著作物と著述家の関係について

 わたし、小谷真理こと巽真理は著述業を生業とし、それで生計をたてているものです。著述家は著作物を書き、それを出版社に売って、それで営利を得ております。

 ここで気をつけなければならない点は、著述業を営む者が作品を創造することそれ自体によって社会的な評価を得ていることです。仮に作品AがBさんではなく、Cさんの手によって作られたのなら、作品Aの評価はBさんの方ではなく実作者であるCさんの方へいきます。反対に作品AがCさんではなく、Bさんの手によって作られたなら、作品Aの評価はCさんではなく、Bさんの方へいきます。作品Aの出来不出来がどうであろうと、実作者はまず創造者、それを作り出した者としてその評価を受けとる権利を持っています。つまり作品の評価を受けるのは実作者であり、実作者は作品の創造者であること自体をまず尊重され評価され、それから作品自体の評価をされます。たとえば、作品Aが何がしかの文学賞を受賞した場合、評価されるのは作品Aを作った実作者であり、その選評(多くの審査員の言葉は賛辞ばかりとはかぎりません)に書いてあることがなんであれ、それを受けとるのは実作者なのです。

 作品と作家はこのような固有性によって結ばれています。「小谷真理は巽孝之のペンネーム」との虚偽をリファレンスブックの形式を利用して読者に流すことは、この作品と作者の関係性を切断することであります。つまりそれは、読者に誤った事実を流布することによって、著述家である小谷真理こと巽真理と、小谷真理の作品の間の関係性を立ち、著述家(作品の創造者)としての小谷真理こと巽真理の社会的評価を侵害し、著述家(作品の創造者)としての小谷真理こと巽真理をゼロに、つまり抹殺する行為にほかなりません。


2)作品と作家の固有性――ペンネームについて。

 作品と作家の固有性ということで、1)にのべたように、『オルタカルチャー』における「SFの項目」での「という男」と、「小谷真理、あるいは〜」の「小谷真理は巽孝之のペンネーム」がまったくの事実無根であり、小谷真理が女性で、巽真理であることを訂正したうえで、ペンネームが著術家にとってどういうものであるのかを主張したいと思います。ここで問題になってくるのは、作品と実作者の間の関係性の問題です。

 巽真理は原稿を執筆する際、そして広く社会的な活動をする際に、結婚前の実名である小谷真理と言う名前をひきつづき使うことにしていました。結婚前からSFという文学ジャンルで活動していたのであり、結婚後に変名してしまったのでは結婚前から付き合っていただいていた読者・友人などに対して、書いたものの所在がわからなくなってしまうからです。

 筆名は小谷真理こと巽真理の活動全般の「看板」として機能しているのです。それがなぜ他の著述家の看板だとされなければならないのでしょう。ましてや夫・巽孝之の看板ではないのです。それは、自分自身で考えてつけた看板であり個人の名前なのです。

 そして、筆名が筆名として存在する以上、その名前を尊重し、小谷真理の名前で発表された作品の著者としての名前それ自体が持つ権利も守られなければならないと考えます。今回は裁判と言う事情で巽真理という名を公表しておりますが、それは著述家小谷真理にとって、いままではむしろプライバシーに属していたことなのです。


3)『オルタカルチャー』該当箇所の問題点

 さて、『オルタカルチャー』の記述では、1.小谷真理が巽孝之のペンネーム、2.小谷真理は男、とあります。

 まず、「小谷真理が(巽真理ではなくて)巽孝之のペンネーム」との虚偽を流布することは、小谷真理の筆名で発表された作品と、小谷真理こと巽真理という作者の関係を破壊することに他なりません。要するにそれは作品の創造者としての社会的評価を無効化することです。いままでのわたしの仕事はおろか、このさきの仕事全体をも、すべて巽孝之が書いたものだという誤った事実を読者に抱かせてしまうのです。これは、「小谷真理」の名の元で発表された作品に関して、創造者としての評価が「小谷真理」から「巽孝之」へと変わることであり、作品評価自体がよかろうが悪かろうが、作品評価を受ける権利と作品に伴う社会的責任は、「創造者(実作者)として評価されている」巽孝之が持つことになってしまいます。これはいままでわたしが書いてきたすべての著作など活動一般の価値のすべてを、小谷真理こと巽真理から強奪することに他なりません。

 わたし小谷真理こと巽真理は、第一評論集『女性状無意識』で、第15回日本SF大賞を受賞しておりますが、その受賞作品を「創造した」という評価は巽孝之のものとなってしまいます。これは、小谷真理こと巽真理が「書いていない」ということになり、これまでの著作物の創造者としての地位と社会的評価はゼロとなってしまいます。

 そればかりか、小谷真理は結婚前のわたしの実名ですから、小谷真理こと巽真理は、夫の著作を自分のものと偽って発表しているかのごとく受けとられ、これまでの作品を創造してきた実作者としての評価に伴う社会的信用が傷付けられます。それどころか、虚偽を働く人物として評価はマイナスにすらなるでしょう。

 これでは、編集者たちがわたし小谷真理こと巽真理に仕事を頼む際に巽孝之のほうへ依頼したり、わたしが小谷真理名義でいくらこの先業績をたくさん作ったところで、それらがすべて巽孝之の業績であるとの誤った事実として読者に受け止められてしまうからです。また、「小谷真理は男」という部分ですが、これは、さらに悪質なデマと言えます。

 『聖母エヴァンゲリオン』は、(株)マガジンハウスの通知書に記されているように、「女性SF評論家によるエヴァンゲリオン論」という性格をもつ出版物です。これが同出版物の企画の、たいへん重要な要素のひとつでした。

 もともと評論家としての小谷真理こと巽真理は評論を書くとき、自分自身が女性であること、つまり、女性的な視点を最重要課題とするフェミニズム理論をテーマにしてきました。自分自身の性別を隠さずになるべく「女性」として公に強調しているのも、そのためです。

 現代の日本の社会が男性中心の社会であるのはしばしば指摘されております。これは文学の世界でも同様です。フェミニズム理論導入後は、さまざまな作品を評価するときの従来の伝統的な基準とは、女性的視点が抜けていて男性的な見方が中心であると指摘されています。わたしは、様々な作品を論ずる上で、男性と女性の視点による相違を検証することこそがわたしのテーマであると考えてきました。つまり作者が男性か女性かによって作品に性による偏向が生じるものかということを追及してきました。これは、作品を評論する評論家自体が、男性であるのか女性であるのかということにもあてはまります。そのため、わたしは、自分自身が女性であることを公表しているのです。わたしの著作はわたし小谷真理こと巽真理が女性であり、女性の視点から書かれていることが重要な要素なのです。

 読者が、性差に着目するわたしの著作をどう評価しているかを、第一評論集『女性状無意識』の書評をひいて説明します。

 <SFマガジン>平成6年5月号の<ブックスコープ>欄で、中村融氏が次のように書いています。「女性にとってSFとは?――小谷真理『女性状無意識』 この日本にたった三人しかいないもの。それが女性のSF批評家である。世に出た順に言えば、山田和子、中島梓、小谷真理。いずれも男性優位のSF界で、女性の立場から異議申し立てを行なってきた論客だが、なかでも「女性」にこだわって活動しているのが小谷真理だ。その小谷氏が第一評論集を世に問うた。題して『女性状無意識<テクノガイネーシス>――女性SF論序説』。なにやら恐ろしげな題名や、学術書風の体裁に惑わされてはいけない。これは一SFファンが『女性SFファンにとってSFとは何か?どこがおもしろいのか?』(あとがき)という問題を追及した「試行錯誤の連続体」(同)にほかならないのだから」

 中村融氏が「男性優位のSF界」と指摘しているように、わたしの著作『女性状無意識』は、大原まり子氏のSF小説『戦争を演じた神々たち』と、第15回日本SF大賞を同時受賞しております。そのとき、新聞の記事は「SF大賞を女性が取るのは初めて」として受賞を評価しました。まとめてみると、いずれの記事も、男性的な傾向の強いSF界のなかで、15回目にして初めて女性が日本SF大賞を受賞した、という点で一貫しております。この場合まず、受賞した作品を創造した実作者が女性であることを評価している記事内容と言えます。

 男性が優位であるSF界だからこそ、創造する主体(実作者)が女性であることに価値があり、ここには「女性が評価される時代がきた」というニュアンスがこめられているのです。これは裏返せば、それ以前の時代はあくまで男性中心で動いていて、女性が評価されてこなかった、女性が抜け落ちていたということなのです。

 以上の点で、実作者である小谷真理こと巽真理が「女性」だということが非常に重要な評価対象となってきたいきさつがわかるでしょう。

 小谷真理の作品において、小谷真理こと巽真理が女性であることが重要な点はもうひとつあります。小谷真理の作品が、男性や女性のものの見方の相違に関する評論であるために、自分の性別を含めたあらゆる実作者の性別を、作品分析の要因としていることです。フェミニズム理論は、それまで作品を評論してきた伝統的な方法からいかに女性の視点が抜け落ちてきたか、或いはいかに男性中心の価値観から形成されたステレオタイプの女性的視点を元にしているかを研究しています。これまで作品を論ずる視点は第三者的なものであると考えられてきましたが、フェミニズム理論を導入した後は、これまでの第三者の視点とは中性ではなく実は男性的な視点であるということになります。これは、フェミニズム以前は男性が中心で男性によって作られてきた価値観から作品が論じられてきたことを指摘するものなのです。つまり、作品を論ずる評論家の見方自体が、自分自身の性差に依存しているという意味です。小谷真理こと巽真理が自らの性別を公にしているのは、「女性である自分にとって、SFとはどうおもしろいか」という点を書くためでした。それによって男性社会が造り上げた男性にとって都合のよいステレオタイプな女性像と、現実の女性とがいかに食い違っているかを追及しようと考えておりました。

 以上の点により、小谷真理が女性であるということは、1.女性である小谷真理自身が男性優位な文学ジャンルで著作を創造し出版したという点で、2.作品の内容自体が「著者である女性のものの見方」を常に示し性差の問題を提出しようと強調している点で、非常に重要なのです。

 このことは、第一著書『女性状無意識』だけではなく、『オルタカルチャー』の「SF」と「小谷真理、あるいは〜」の項目で言及されている第二著書『聖母エヴァンゲリオン』でも同様です。

 まず1.「女性」が男性優位な文学ジャンルにおいて著作を出版したという点、2.女性である実作者が『新世紀エヴァンゲリオン』という作品の性差構造をどう解釈したか、という点が、『聖母エヴァンゲリオン』に対する読者の評価の対象になっています。それは、同出版物が刊行された後、(株)マガジンハウスに寄せられた読者カードの記述からも明白です。『聖母エヴァンゲリオン』に挟み込まれた読者カードには、読者への質問事項として「五、本書を購入になった動機はなんですか」という一文があります。(株)マガジンハウスに保管してある読者カードには次のような感想が寄せられています。

(1)「著者が女性であることがめずらしかったから。女性の視点でのエヴァンゲリオンに興味があったから」(平成9年9月25日付け、愛知県Y・N、17才男性)。これは、1を評価しております。

(2)「女性の書くエヴァ論に興味が出来たから。」(平成9年7月30日付け、奈良県、N・I、17才男性)。これは、1を評価しております。

(3)「女性の方が執筆されたエヴァEVA本はどのようなものかと思いまして」(平成9年 月 日 付、新潟県Y・T、29才女性)、1を評価しております。

(4)「『エヴァ』にはずっと女性性へのメッセージがこめられていると思っていたので女性の目から解いた『エヴァ』を読みたいとずっと思っていたから」(平成9年 月 日付け、東京都M・K、23才女性)、これは1及び2の点を評価しております。

(5)「関連書籍の中では珍しく、女性の著者だっから」(平成9年9月17日付け、千葉県M・M、31才女性)。これは1の点を評価しております。

 ここで、指摘しておきたいのは、いずれの投書も「四、著者の小谷真理の名前はご存じでしたか」の問いに対して「いいえ」と答えていることです。

 女性によるエヴァンゲリオン論だから購入した五名がいずれも「小谷真理という名前を知らなかった」ことからもわかるように、「小谷真理の名前をいままで聞いた事がなかった」消費者に対して、「『聖母エヴァンゲリオン』の作者が小谷真理というペンネームを使用する男性・巽孝之である」との虚偽を流布することは、『聖母エヴァンゲリオン』を初めとする小谷真理の著作の社会的評価や商品的価値を貶める、明らかなる営業妨害であります。特に『オルタカルチャー』には、『新世紀エヴァンゲリオン』に関する項目が含まれております。したがって、「小谷真理が男である」というデマは、『オルタカルチャー』を手にとった『新世紀エヴァンゲリオン』の読者に対して流布されたのです。

 現在『聖母エヴァンゲリオン』は八万部が刷られて流通しており、投書者たちは首都圏だけではなく日本各地に居住しております。

 『オルタカルチャー日本版』は、そのような『聖母エヴァンゲリオン』の読者たちに対して、「小谷真理は男」であり、「『聖母エヴァンゲリオン』は女性の視点から描かれたエヴァンゲリオン論ではない」というありもしない虚偽を流布し、小谷真理が読者をだまし虚偽を働いているという虚偽を、出版メディアならびに電子メディアにわたって流し続けているのです。したがって、女性である小谷真理こと巽真理と、小谷真理こと巽真理が創造した『聖母エヴァンゲリオン』に被る経済的損害は甚大であります。これは、歴然とした営業妨害行為です。これを見すごした場合、著作者小谷真理こと巽真理の社会的評価と、著作全般にわたる経済的影響は膨大なものになると言わざるを得ません。



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