高原英理氏 論説

テクスチュアル・ハラスメント裁判


■下記論説は著者の許可のもとに掲載させて頂いており、著作権は著者に帰属します。複製・転載は禁止します。


1 報告と所見

 この章は2001年6月14日に書かれたものである。それ以後、誤字訂正以外の変更はされていない。このとき判決は出ていなかった。
 去る2001年4月10日、東京地方裁判所第611法廷において、通称「オルタ事件」仮称「テクスチュアル・ハラスメント事件」に関する公判が行われた。
 これは正式には平成十年(ワ)1182号民事訴訟、原告・小谷真理、被告・山形浩生。
 事件の概要は以下のとおり。
 平成9年10月16日に刊行されたサブカルチャー系レファレンス・ブック『オルタカルチャー』(編集…メディアワークス、発売…主婦の友社)中、二項目にわたり、著述家・小谷真理氏(女性、SF&ファンタジー評論家)の名を「その夫である巽孝之氏のペンネームであり、本人は男性である」と断定する記述が掲載された。小谷氏は同書刊行後、度々抗議を申し入れたが、誠意のある回答が得られなかったため、「名誉毀損」として法廷で争うこととした。
 原告側の主張は、「女性(妻)の名前を、男性(夫)の筆名とし、女性である著述家を男性であると断定する記述は、女性から名前を奪うことであり、言論権を剥奪する女性差別表現である」というもの。

<以上、大原まり子・小林富久子・三枝和子・与那覇恵子各氏の文責による「『女性の著作権を考える会』発足の辞」冒頭部分の記述をもとに紹介した>

<「テクスチュアル・ハラスメント」の正確な意味については以下の文献を参照ののこと。
『テクスチュアル・ハラスメント』ジョアナ・ラス・小谷真理・著 小谷真理・編訳、2001年、インスクリプト刊>


 私が傍聴した限りでは被告・山形浩生氏が予め確信的な悪意を持って小谷真理氏および巽孝之氏を誹謗したのかどうかはわからなかった。また事実として山形氏は確かに一度は謝罪訂正を認めている。ただし、小谷氏側の要求に沿ったものではないようだ。
 悪意の有無ということに関しては問題ではない。被害者側に納得のゆかない訂正で終わらせてはならないというのが原告側の訴訟の理由らしい。また、一度だけ訂正が行われただけで以後の文献に訂正がないというのも理由であるようだ。
 私の考えでは、山形氏の放言はいわばたまたまひっかかった、よくある例の一つとも言え、山形氏自身の罪の有無ともかかわりなく、この裁判は必要である。
 なぜなら、この裁判があるいはこれ以後同種の裁判が数多く行われることによって、「一見格好よく見える態度」が犯罪的なものとなりうることを歴史として記録することが可能となるかも知れないからである。
 山形氏が本当にこの件を打ち切りたければ、「冗談だと言っていたがそれは飽くまでも私の認識であり、原告の認識においては深甚な被害を与えたものであったことを認め、以後、この件に関する記事には必ず、私の間違いだったので謝罪する、という旨を明記し続けることを約束する」と言えばよいのではないかと思う。それは単に一点の間違いを継続して認め続けるというだけで、これによって彼の業績が否定されるわけではないのだから、特に問題はない筈だ。
 だが、そうした場合、そこにひとつだけ、矛盾が生じてしまう。それは、氏が形成してきた「不良インテリ」という自己イメージを損なってしまうからだ。
 東大を出、外国語に堪能、経営コンサルタントでもある山形氏が、翻訳紹介するもの・話題にするものの多くが「アウトロー」的な作家・発言者であり、またネット上の「アブナイ」サイトを紹介し、劣った者たち・弱気な者たち・無様な者たちを過激な口調で軽蔑罵倒し、ときに過度の攻撃性を見せたり、向こう見ずな放言をしたりする。しかも、これは全面的に言えるかどうかはわからないのでただの私の感想だが、氏は女性にもてそうな、なかなかのシャープな容姿と思える。同様に感じる人にとって、このことは彼の立場のよさをより強調するだろう。
 こうした人物像は知的・能力的・社会地位的に高度でありながら、態度が「ごろつき」という、男の子なら必ず一度は憧れた「高級不良」である。山形氏のこれまでの言説実践は、高い知能と広範な知を背景にした彼の態度の卑俗さ粗野さがそのまま高度に選良者的な意味を形成してしまうという巧妙な戦略であった。そしてこの態度が何より彼の執筆者としての魅力の原点なのである。
 なのに、自分の放言に対して「反省」などしてしまったら、あるいは「この先の配慮」などしてしまったら、「しつけのよい・去勢された・不良でない・ただのインテリ」になってしまう。これが氏には決して退けない理由ではないか。
 言い方はどうであれ、小谷氏に訴訟まで起こさせた山形氏の「あやまりかた」とは、本人の「不良インテリ」としての原則を踏み外さない形のものであった筈だ。そこで、向かってくる敵対者に対して「本気で反省したそぶり」や「以後も訂正し続けるという真面目な態度」を示すことは、これまでに罵ってきた弱者の態度を自分がとることになり、「格好わるい」から厳禁なのである。
 こうして、氏は、謝罪はするが「不良」の態度はくずさない、という形でこの件をのりきろうとした。訂正自体は認めているのだから、普通ならまず大抵、これ以上追求してくる相手はいない。
 しかし、その謝罪は、いわば「山形氏の格好よさの一端」として演技されるものでしかなく、その意味では謝罪ではなく、「謝罪の形での自己優位演出」なのである。
 山形氏の回答について小谷氏がどう解釈したか私は知らない。ただ、提訴した小谷氏はそこに強い不信と不全感を認めていることになる。これでは謝罪にならない、と考えたからこそ提訴に踏み切ったのだ。
 それで結果として小谷氏は、山形氏に、「自己優位演出」なしの「謝罪しなおし及び以後の態度の訂正約束」を求めるに至ったのではないか、と私は思う。
 以上は私の「詮索」だ。飽くまでも傍聴者としての私にはこのような道筋が考えられた、という報告である。
 むろん、こういう心理の詮索というのは裁判では問題にできにくい。
 また、たとえこれで敗訴したとしても山形氏がその態度姿勢自尊心の持ち方を変更するとは思えないし、法が個人の信念を変えさせるべきものとも私は思わない。さらに言えばいかなる経過があってもこの裁判によって山形氏がその地位をおびやかされることはまずないだろうし、判決の出た後に必要な義務があればそれさえ果たせば、以後の氏の著述行為に支障はあるまい。
 要するにこの裁判は山形氏へのものであるよりは、むしろ山形氏のような発言をしたがる人へのメッセージであるということだ。山形氏のような発言をしたがる人々は、自尊心の持ち方に特徴があり、たとえ過ちは認めても、「心から謝罪する」ということはない。彼等にとって必要なことは敵に勝つか、あるいは自尊心を温存できるうまい負け方を示す、といういずれかだけだ。引き分けの場合も何らかの形で自尊心が保持されなければ意味がない。
 そしてその「心の持ち方」を法は裁けないし裁いてはなるまい。ただし、それが引き起こす他者の怒りからの報復を、法によってより面倒なものにし長引かせ、つまり従来よりは格段にコストのかかるものにすることはできる。
 要するに、この裁判は、以後、ひとことふたこと「ある種類の冗談」を公の場で発することがこれほどまでに面倒で苦痛の多いロスタイムを引き起こす、という実例として記憶されればよいということである。
 だからこそ、今ある法の範囲内でも「その自尊心の顕示は高くつきますよ」という、物質的事実をここで残しておくべきなのだ。
 この先、自分に都合良く「不良」を気取りたければ、それなりに金と時間と精神的苦痛を払ってもらいましょう、というシステムの始まり、というのが私から見た今回の裁判の意味である。その面倒がいやなら、「配慮」のある発言をせねばならないし、「配慮のあるインテリ」なんて誰も魅力を感じない。
 山形氏に代表されるような「放言型不良インテリ」はこの先、よほどの覚悟を必要とするようになる、というルールの成立を私は望む(十分に覚悟のあるアウトローならその発言は自由だ、という原則も認めてはおく。ただし、言われる側も以後は黙っていない、という前提のもとで)。それが進めば、小谷氏言うところの「テクスチュアル・ハラスメント」が「格好よさ」の誇示としては成立しなくなるだろう。
 かつてUSAでは、黒人を低劣な無能者として笑いものにする悪質な「冗談」が日常的に交わされていた。ある時期から、それを言うことのリスクがあまりにも大きくなったため、少なくとも公の場では語ってはならない言葉となった。その歴史と今回の裁判に発する外へのアピールとが似た道筋のものとなればよいと思う。
 なお、この裁判に関して、事実誤認、もしくは解釈の誤り、等、あればお教えいただきたい。反論もできるかぎり、このような公の場で話題にしたい。そうすることがこの問題に多くの人の注目をうながす結果になるからである。

→2