2 前提

 前章はどちらかと言えば事実の紹介とその解釈を優先するものとして書かれたが、以下は批評として意識されている。よって私の通常の書き方として敬称略とさせていただく。
 差別問題に関しては無数の顧慮すべき項目があるが、とりわけ一般的に語られやすいのはまず人種、階級、身体的・知的特異性、およびジェンダーであるだろう。そして今回の裁判がジェンダーによって生じた差別にかかわっていることは言うまでもあるまい。問題は一人の著述家が「小谷真理という女性名は、男性である巽孝之の筆名である」という嘘を「事典」として読まれうる書物に記したという事実とともに、それが「巽孝之という男性名は、女性である小谷真理の筆名である」という虚の記述を同じ状況で公にした場合とは対称的でないというところにある。
 この事件を名誉毀損という面からではなく、ジェンダー問題という方向から語る場合、私としてはいくつか、確かめておきたい事項がある。以下はジェンダー論的批判という行為に対する私の見解としてお読みいただきたい。
 ジェンダーという考え方はようやく一般にも浸透したと言えるだろう。それを用いた批判も増えた。だが、それは何より実際の生活上での関係性を考える手段なのであって、従来的な意味での「真理の記述」を目的としていないことはしばしば見落とされ、「正しさをめざす批評の一種類」として収まりよく分類されることが多い。
 しかし、ジェンダー論的認識・批判とは、「真理」の源泉ではなくその政治性を問うもの、結論より文脈を問うもの、そして「コンスタティヴ」であるより「パフォーマティヴ」なものであることを忘れてはならない。それは論理の内容よりむしろ論理の語られ方のほうを問題にするのだ。論理の正確さすらときには裏切らねばならない政治的発話行為として、私はそれを認識している。早い話が、何を言うか、ではなく、それを言うことで誰が利益を得るか、に注目するということである。
 しかし、前述のとおりこれは非常に多くの場合、近代的な「真理」を語る言説の機能と混同され、さらにその「勘違い」によって否定されることが多い。それが最もよく露呈するのはジェンダー論への「ありがちな批判」においてである。
 まず、最も初歩的で無防備な、ジェンダー論への「批判のつもり」の言葉は次のようなものだ。

 「こんな単純なものは社会哲学上の理論にはなりえない」

 しかし、バトラーやセジウィック、ルーピン、ベルサーニ、ハルブリン、ド・ローレティス、ハラウェイ、そして今回とりわけ視野に入れるべきジョアナ・ラスにまで至る理論家の著述を読んでこう言うとしたらそれこそ本人の単純な断定を恥じなければなるまい。日本のたとえば伏見憲明の論考にしても難解ではないが相当に煩雑な思考を要求する。
 それで、ジェンダー論の意味・存在理由を全般的には知らない者が、ジェンダー論を背景に持つとわかるような批判を安易に否定しようとするとき、次のステージに入る。『ジェンダー・トラブル』さえ読んでいない者にも可能な言い方が次のような言葉である。

 「こんなものがジェンダー論だといういならお笑い種だ」

 つまり、背後にあるらしい(よくは知らない)複雑な理論体系には敬意を表する態度を示しつつ、実践として示された批評については、「ただ差別するな」くらいしか言っていないではないか、そんなことならこちらは先刻知っている、と告げるものだ。
 自分にも向けられていると思われる何かへの突然の攻撃(それ自体は大した論理構成でなくとも成立する。だが、受け取る側には相当の驚きと怒りを与える場合がある)を目の前にしたときの、批判者への自己の知的優越感を保持しつつ批判自体を回避しようとする言葉と言える。
 この種の言葉は、ジェンダーという思考の手段が「思考の手段」であることを知らず、あるいは知ろうとせず、あらゆる議論は精緻な論理体系を誇って見せなければ「知る」に値しないという態度を示すものだ。その発言者にとって優れた批評とは、ヘーゲル哲学であるとか、ラカンの精神分析理論であるとかに匹敵するような複雑で精緻(に見え)、修得が難しく思われる、一読では理解の難しい難解さによって読者を圧倒するものをさしているのだろう。そこには読み手と書き手との間に「勝ち負け」があり、「読み手を負かせない論理の展開は無価値だ」という判断によって批評の優劣を決めていることになる。そのとき「勝った論理」が「源泉」、つまり言説上の権力の中心として認識されることになる。その「源泉」を手にしている者が優越者であり、手にしていない者は「愚かな一般人」として優越者に追随することを求められる。
 なお、東浩紀が『動物化するポストモダン』で示したような「ポストモダン」はこの序列が壊れ規則力を失った状態を言うのだが、実のところ、われわれの言説において、ある分野では確かに東の言うように序列が壊れていても、同時に、別の分野では旧態依然とした近代的オリジナル神話が機能し続けていることを忘れてはならない。すべてにわたる完全な「ポストモダン」状態を私は信じない。われわれの価値システムにおいては常にどこかの領域に「優越者」と「愚かな一般人」の序列があり、その差はあい変わらず近代的な「真理」という「すぐにはわからないもの」を手にしているか否かによっている。
 それゆえ、「愚かな一般人」にはまずわからないであろう部分を含んでいることが、賞賛の対象ともなりうるわけだ。むろんこれはやや誇張した言い方である。とはいえ、分かり易さより高度な論理展開の法を尊ぶことはないだろうか。もしそうなら、その場合「真理」ですらなく、最も「批評的」でないイメージ判断によって、たとえばレスリングや剣道の試合を見るように「賢い比べ」をしているに過ぎない。そこでの「賢さ」という認定も、実践的な結果なのではなく、ただ「読み手を圧倒する」というイメージによるものでしかない。
 むろん圧倒する批評があってもかまわないが、その圧倒感自体は「芸」の結果であって、圧倒することが「現場に触れるための言葉」の証明にはなりえない。
 イメージ上の権力闘争を批評と考えている「批評好き」がいるなら、そうした者たちの行うイメージ判断は政治的強弱関係を明らかにしようとする者にとっては有害で放っておけない欺瞞である、と言い続けるのもまた「ジェンダー論的批判」の立場である。
 しかしそれはむしろ派生的な機能と言える。ジェンダー論的批判はさらに批評的に正しい手続きを踏んで得られた「真理」に対してさえ、「それを真理とすることが誰に対して有益なのか」と、いわば機能を問う形で疑問を突きつける。いかに「正しい」とされている規範も、事実上ある特定の集団の利益のために機能してはいないか、それによって損害を被る集団がありはしないのか、ということを明示しようとするものである。浮薄にでなく真剣に思考する者による、イメージ的でない「真理」への愛にすら疑問をさしはさむということだ。
 しかしそこでは「知る」ということの意味が違う。
 ジェンダー論を軽視する人々にとって「知る」とは「今より知的に卓越すること」である。しかし、ジェンダー論的に「知る」とは「意見の背後の政治性を知ること」だ。ジェンダー論的言説は知の優位に安住したがる者の既得権を批判するため、ときに怒りを買う。だがこの実際の喧嘩腰の応酬なしに、スマートな知のやりとりによって互いが「紳士」のままでありうる「知」など、いくらかでもジェンダーを意識した者にはただ過去の慣習の無批判な継承に過ぎない。「たとえあなたの意見には賛成したとしても、あなたの態度に見える無根拠な自信と自足を私は許さない」と言い続けることがジェンダー論的批判の実践である。
 するとそれは、論理の正確さとその美しさの好きな者には排除しておかねばならない見苦しい部分(邪魔な「いいがかり」)と映る筈だ。しかし、美しく潔い倫理が捨てた「汚い屑」の部分が性役割の形で特定の者に非対称的に割り振られてきたことへの自覚が、そうされた者に「ジェンダー」という知を与えたのだ。
 今、「美しく潔い倫理」と言った。ことさらな美意識とか唯美主義とかをさすのではない。これは通常、「社会的に立派な発言態度」として認識される従来ならば男性ジェンダーの規範だったものをさす(ここで、ジェンダーを単純な二項だけと考えて言うとすれば、である。ジェンダーの分類はいくらでもありうる。また人種・階級あるいは年齢等によっても細分化される)。だがそれは「人間」全体の理想として語られることで、非対称的な役割分担によって成立してきた言葉である事情を隠蔽する。この点に限り、「正しさ」は普遍的で身体上の性別には関係ないと承認される(『ジェンダー・トラブル』の立場を肯定するならば「身体上の性別」というのがもはや決定的な分岐点ではありえないが、さしあたってここではその件に触れないこととしておこう)。
 その結果、一般的なものに見えるある倫理は「全人類的な理想」の顔で語られる。しかしその政治性に目を向けさせ、「潔さ」「美しさ」はては「批評における従来的意味での優秀さ」さえもが特権的な発言権のもたらす結果でしかないものであることを何度も語り続けること、それがジェンダー論的批判の実践である。
 なお現在、私の知る最も望ましいジェンダー論的批判実践は斎藤美奈子による『性差万別』(2002年1月現在、雑誌「噂の真相」に連載中)のようなものだ。
 むろんジェンダー論そのものが学問や哲学の体裁をとるのも現状では仕方ない。それに対し、ジェンダー論的批判とは、日常的に継続されることによって僅かずつ自他の認識の変容を推進することが目的なのであって、一時的に圧倒することはかえって有害だ。ゆえに、思想の「鋭い一点の緊張」はむしろ無用な場合さえあるのである。それこそ中野重治の言葉をいくらか変奏して用いて言えば「ねちねちと」続けるべきものである。ここではそれを「何負けてもいかに貶められてもあきらめず予定された結論を信じず一発勝負を期待せずにやり続ける」という意味で用いている。だからジェンダーという発想による発言が最も必要なのは「批評」であるよりは、なるほど裁判の席上においてであるかもしれない。
 理論としてのジェンダー論そのものでない、ほとんどの「ジェンダー論的批判」は、これまでの歴史的な役割実践の結果である現行の性認識・性役割認識へ執拗に異議申立てをしてゆくことによってしかその意図を発現しえない。否、意図などというものさえ正確には持ち得ない。なぜならそれは自らの意識もまた変容させてゆくものであり、また実践の結果、いかなる新たな役割認識が発生するかは予測できないからだ。ただとにかくしつこくねちねちと性別認識による発言の落差をつつき、そこにある認識共同体の複数性を証明し、そして優位にある認識共同体が無自覚に「当然」としている規範を「ひとつの考え方」の域にまで引き下げようとし続けること、それがいかに些末な単純なことでも継続的に実践することで、その異議申立て行為自体もまた「あたりまえの一部」を形成するように反復することだ。反復にいちいち美しさや潔さや圧倒する知などいらないのだ。

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