3 結果と意見 以下は2001年12月25日以後に書かれた。 平成10年(ワ)1182号民事訴訟(通称「オルタ事件」仮称「テクスチュアル・ハラスメント事件」)は2001年12月25日(火)午後1時20分、東京地方裁判所611号法廷で判決が言いわたされ、東京地方裁判所民事第48部須藤典明裁判長は、被告の名誉毀損事実を認め、原告側が勝訴した。 以下に判決主文を掲げる。 1. 被告山形浩生及び被告株式会社メディアワークスは、原告に対し、連帯して金330万円及びこれに対する平成9年11月5日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 2. 被告株式会社主婦の友社は、原告に対し、被告山形浩生及び被告株式会社メディアワークスと連帯して金110万円及びこれに対する平成9年11月28日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。 3. 被告山形浩生は同人のホームページ「YAMAGATA Hiroo Official Japanesepage」(http://www.post1.com/home/hiyori13/jindex.html)のトップページに、被告メディアワークスは同社のホームページ(http://www.mediaworks.co.jp/alt/)のトップページに、それぞれ別紙1記載の謝罪文を投稿して、これを1か月間掲載せよ。(以下略) 詳しい判決結果は、ウェブページ(http://www.twics.com/~meta)に掲載される。(HP管理人註:2013年4月よりサーバー移転に伴い http://inherzone.org/FDI/ にアドレス変更となっております) 担当弁護士によれば、名誉毀損裁判では珍しく賠償金額が高額だったこと、インターネットのウェブページでの謝罪広告が命じられたこと、発売元(主婦の友社)にも責任が認められたこと、の三点において、画期的な判決であるという。 以上が2001年12月25日の記録。 2002年1月7日現在、確認したところではこの裁判に控訴は行われないとのことである。つまり、判決は確定し、本年1月9日以降、該当ホームページ上に謝罪文が掲載されることとなる。 裁判そのものは名誉毀損事件として提訴され結審したものである。それは現在の日本にこの事件を「テクスチュアル・ハラスメント」として裁く法律がないための措置と言える。またその限りにおいて、この判決は、これまでになかった「テクスチュアル・ハラスメント」という視点をも包含しうる形として配慮されたものである点で非常に高く評価できると告げておかねばならない。 しかしながら、やはりこれは飽くまでも名誉毀損として裁かれており、そのことがこの事件を誤解されやすくしているのは否定できない。 この裁判が提訴された時期(4年前)に書かれ、現在、ウェブ上(THESEIRON/seiron@sankei.co.jp)の「批評スクランブル」の記事として「読解力とレトリックに関する二題」という題名で公開されている、福田和也のコメントがその事情を最もよく表している。以下に該当部分を引用する。 |
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端的に言うならこの意見は、前章で告げた、ある特定の真理への信仰を共有する場を前提としたホモソーシャルな読み違えである(ところでおもしろがりたい人は小谷真理の名に「真理」がある、などと「洒脱」なことを言うのも結構である。しかし私は今、そういう「シャレ」にはつきあえない)。この裁判はそもそも女が「物書き」であることを認めたがらない認識共同体に向けて通常の「物書き」の方法での説得が通じないから起きた実力行使であり、「物書き」のルール事態が女に不利に働きやすいという事実を問題としているからだ。 「この訴訟はシャレなのでしょうね、そうでなければ、いくらなんでもヤボがすぎる」という言葉は、さらに「物書きの誇り」といった、たとえば永井荷風を思わせるような「文学者的反骨精神」を理想としつつ行われた揶揄であり否定である。 つまり、福田は、ここで、「シャレを尊びヤボを嫌い、お上には頼らない反骨の物書きたち」という想像の共同体を前提としそこに自分が所属することを誇示しつつ、小谷・巽への「物書き失格」を宣し、かつまた「表現の自由」を損なう「敵」として告発しているということになる。 そこには根を同じくする二つの問題がある。 そのひとつは発言者の所属による利得の所在によるものである。 これを読むと福田は「シャレを尊びヤボを嫌う反骨の物書き」こそが「文筆家の本来の姿」、つまり「真理」と考えているらしいことが知れるが、しかし、それがどうして本来的なのかは語っておらず、その結果、この文は、ある歴史的な態度を無前提に賞賛し、それにそぐわない態度を貶める機能を帯びる。しかし、「シャレを尊びヤボを嫌う反骨の物書き」が「すべての文筆家」の理想でなければならない理由はない。そこには福田が「物書き」的と認定する態度を取らない執筆者への抑圧の機能が組み込まれている。彼の言う「物書き」の理想は結局、彼の立場に近い執筆者の規範から来ているのである。 それこそ「物書きのルール」を重んじた(活字媒体上でいかに口汚く罵り合ったとしてもそれがまだ「物書き同士」というレヴェルであるなら「紳士同士のルール」と等しい)節度のあるやりとりでは覆いきれない問題が生じたゆえに「物書き同士の枠」を捨てた形での政治的言動が行われたということなのであって、それを「物書き」の美学から否定することは問題への言及方法としては無意味である。 しかもそこでは「表現」の範囲が「物書きの営為」に限定されており、裁判を用いねば達成できない政治的発言行為がありうるということへの想像力を欠いている。そもそも「よき物書きたれ」という姿勢が抑圧の理由なのである。「ヤボ」か「イキ」かという美学に気が回るような状況ならばこの事件は最初からありえなかったのだ。 ここからわかるのは福田は「物書き」として少なくとも小谷よりは安心な立場にいるということだ。彼は、物書きであることを否定されるかも知れない執筆者の存在も、そうしたがる勢力が今も存在するという枠組みの不正も知ることができない。その不正な勢力が福田を不当に排除することはないからである。この有利な条件の享受者が、異なった条件の執筆者へ「物書きならば物書きらしくせよ」と言うのは、対戦の資格そのものを周囲から剥奪されかけていることを問題としている選手に、既に選手権を持つ選手が昔ながらのスポーツマンシップを説いてみせるようなものだ。相手とすべきものは対戦以前の選抜決定・認知の部分まで含まれるのに、だ(そういえば水泳の選手選抜問題でこうした事件があったことは記憶に新しい。そのときあなたはどちらの味方をしましたか?)。 もっと簡単に言うなら、福田の言葉に代表されるような「よき物書き」といったポストモダン以前の規範が今も影響力を持つ言説の場で、「不良インテリ」(「物書き」としては優等生)を気取る相手を前に「女」が何を言っても「まあまあ、お嬢さん」と当人からだけでなく周囲からさえもいなされ、さらに言いつのれば今度は「ただのヒステリーな女」と言われるだけで何ら有効な攻撃になりえないからこそこの裁判は起きたのだ。 なお、現在、「女の物書き」は大量にいるではないか、彼女たちは差別されているどころか、新人文学賞などではむしろ男の書き手を不利にするほどではないか、といった意見も出てきそうだが、考えてもらいたいのは、たとえもしそうだとしてもその「有利」は「女の小説家・随筆家」等の場合で(実はその場合にも特有の不利と抑圧がいくらでもあるのだが敢えて省略する)、ここで話題となっている小谷真理は「女の批評家」であることだ。もし「女の物書き」が予め不利を被りやすいという事実が全くない、と言うなら、学者でもエッセイストでもない日本の「女の批評家」をすぐに十人以上、あげてもらいたい。 以上を「ローカル」とすればもうひとつの問題は「グローバル」な形で提示されている。「表現の自由」といういわば「全人類的倫理」の形で語られる「理想」の暴力性である。 ただしそれはこのように無前提に用いられるとき暴力となるという意味であって、「表現の自由」を旗印とする抵抗においては私もまた多くの場合その旗印を肯定する。 問題はそれがここで抵抗の理念ではなく、抑圧の理念となっている点である。 「しかし、ハラがたったのなら、どこかの雑誌なり著書なりで反撃すればいいではないか。お二人とも、書く場所などいくらでもあるだろうし、ケンカともなれば誌面を提供する雑誌はいくらでもあるだろう。揶揄には揶揄で、お二人ともせいぜい山形氏をコケにすればいいのである」という一見文字どおり「正論」(ここではこれは普通名詞として用いている)に見える、また普遍的にも見える言葉は、「揶揄には揶揄で」というガンマンの対決のようなホモソーシャルな形では解決できない、そもそもの前提の不公正を問う者に対し、その前提に不正はないと認めさせた上で「男らしく」ガンマンの対決のように解決せよ、と抑圧するものとなる。問題はその対決の場自体にあるのに、だ。 そこで一番の問題は、「これを書いたのは女の某なのではない」とか「女にたいしたものは書けない」という意味の発言がされたとき、一般人が盗作問題ほどには重大視しないということだ。ときに「やっぱりね」と言う意見さえ出る。つまり、書かれた「表現」自体以上に、解釈する側の「常識」の偏差を問題にしているのであり、その場合にはいかに「書いて」も「表現」しても解釈共同体への実力行使にはならず、物質的な事実(つまり裁判の判例など)としての重みを持つ形での解釈の記録を法の名のもとにでも残さない限りはそれを訂正することが難しいということなのだ。提訴は「解釈の流れを変えるための表現行為」と見るべきである。 ここでも言えることは、「表現の自由」のレヴェルで語られる問題とは、どこまでも「対等」を前提にしているため、『テクスチュアル・ハラスメント』に示されるような、ホモソーシャルな解釈共同体によって「対等」自体を損なわれる場合、陰口をも含む特定の集団の意志の不正まではそれによって告発ができにくいということだ。再び言うがより大きな問題は「表現」自体よりも、解釈する側の「常識」の歪みにある。 福田は、一般に「表現の自由」として語られる理念を、今回の提訴の不当性の根拠として語ることで、現にある目に見えづらい非対称性を隠蔽する手段にしてしまっている。「表現の自由」と言うならば、「見えていない解釈者側の差別を目に見えるようにするための表現」として訴訟もまたその手段でありうる。 ただ、小谷は、「物書き」的ルールにもとづいた反論・プロパガンダ活動も一方では行っており、それが昨年出版された『テクスチュアル・ハラスメント』の著作であることは言うまでもない。そして、この著作によって小谷はようやく今回の事件を「名誉毀損」という解釈からではなく、「テクスチュアル・ハラスメント」という解釈共同体の問題として指定して見せた。 こうした「物書き」的行為が全くなければ、やなりこの裁判は「シャレのわからないヤボな評論家が文筆で勝てないから裁判に持ち込んだ格好悪い事件」とされたままであっただろう。しかし、『テクスチュアル・ハラスメント』の一冊があることにより、それは「従来はほとんどの女性執筆者が気付きながら広い場で問題にされず、言論の自由の名のもとに覆い隠されてきた構造的不正の一端を明示する最初の事件」となったのである。その意味で小谷は、「物書き」の戦い方をも示した。ただし、既に述べたように「物書き」の方法だけで解釈共同体自体に変更を迫ることは非常に難しく、同時に訴訟を起こすことが必要でもあった。 「女には優れたものなど書けはしない」という不条理な発言が抵抗なく受入れられる状況を無自覚に存続させてしまう言動への異議申し立てとして行われた行為を、より普遍的な意味での「表現の自由」の敵と考えるべきではない。この問題を是正するには「表現」媒体の外、「表現」自体の外への実質的な働きかけが「表現」と同時に必要だからだ。 今再びこの裁判の成果を考えて見ると、それは「ここに特定の誰かだけを有利にするずるい行いがある」と告発するときの「ずるさ」の理由としてテクスチュアル・ハラスメントという名の解釈を多くの共同体の認識に組み込む第一歩としての意味である。それは「批評家らしく論争する」ためでも「物書きの誇りを見せる」ためでも「読者を楽しませる」ためでもない。よって合法的な手段ならば何を用いてもよいお。また表現の問題において「物書き」は訴訟沙汰を避けよという美意識自体、もはや単なる郷愁でしかない。 さらに告げておかねばならないのは、今回の判決が、常に「表現の自由」を規制したがる「優勢政治勢力」の利益のためになされたわけではないということだ。たとえこの先、どこかの政治勢力がこの判例を「表現の自由」への抑圧のために利用しようとすることがあったとしても、それは全く別のステージの問題であり、そのときにはいずれも「表現者」である福田と小谷とはむしろ協同して対処する必要さえ生じるだろう。 それにしてもやはりすべての誤解の理由は「名誉毀損」というこの裁判の分類にある。これが名誉毀損の形でしか提訴されえないということは非常に残念な法の不備と言えよう。 ともあれ、以後この事件を考えるなら、まず『テクスチュアル・ハラスメント』を読まねばならない。小谷のいわば「言い分」を聞いてから考えることは、それこそホモソーシャルな意味でも「フェア」な筈だ。 |