笙野頼子氏 論説

SF神話純文学——新しい女性文学を戦い取るために

平成15年10月12日 日本アメリカ文学会第42回大会(於 椙山女学園大学)
■下記論説は著者の許可のもとに掲載させて頂いており、著作権は著者に帰属します。複製・転載は禁止します。




   今日は朝の4時に起きまして、家に猫が4匹おりますので、猫トイレが6個あるんです、それを全部掃除しましてから、6時に千葉県佐倉市の自宅から出てきました。先ほど、F1があってここへ来るのがとても大変だったということを伺いまして、今日は心からお礼申し上げたいと思います。

 何からお話しようかと思ったんですけど、最初題名で、女とか神話とか純文学とかSFなんていうことを書いてあるので、この人は頭が支離滅裂なんじゃないかって、お思いかもしれませんけど、じつはこれが、私の身体の中ではひとつに繋がっています。私が生まれたのは1956年ですので、今47歳です。どういう時代かっていうと、親の世代が戦前戦後、ちょうど終戦のころに青春時代を送って、そしてその子供の世代ということになります。戦後ですので、少なくとも戦前よりは男女平等になっている、でも男女平等っていうのはどういうことかっていうと、極端な言い方をすれば、要するに女も努力すれば男になれるんだよっていう建前だけあって、ガラスの天井のある社会だったのだと思います。そういうところで、親にものすごく愛されて育ったんですけど、お前はホントは男なんだよって言われながら育ちました。どうしてかって言うと、それは親が悪いんじゃなくて、戦後は要するに、経済の、実力社会とか称していても、女の人がするようなことや、あるいは文系のことは、役に立たないことだ、科学があって、お金があって、男の人がいて、そういうのしかサバイバルさせまいとする社会だったのだと思います。そんな中で、お前、本当は男なんだから、理科系に行ってお医者さんになるんだよって言われて育ちましたけど、12歳になったときに、自分が女性だということに、やっと気づきました。とても夢見がちな子供で、自分はいつか男になるんだと思っていて(笑)、男の子って言っても、当時はたまたま頭で勝つ事もあったので、あとは筋肉だ、筋力で勝たねばならないと思って(笑)、机を持ち上げるとか、椅子を持ち上げるとか。男子が「お前何しとるんや」とか言うわけですよ。でもだんだん男の子は男の子になっていってしまって、ズボンはいていても男言葉使っていても、いつの間にか身体は女性になってしまう。そのときに初めて私は、社会というのがヘンなものだ、ということに気づきました。

 で、どういう社会かっていうことを今、これは前説なんですけど、一言で言いますと、文学の文章の中に、あるいは文学のロジックの中に、デリケートな複雑な日本語の中に、やたら数字やお金が、雰囲気として、テキ屋の数字のような形で入ってくる時代だということです。で、もちろん私がこういう風にして文学論をしゃべると、大体呼んでくださった文学の先生方というのは、ものすごく困ってしまってですね、あとで、「いやあの、フェミニズムとは気がつきませんでした」とか言って(笑)、ですので今私の言っていることは、もひとつ変な、わからないような事だというように聞いてくださっても結構です。だけど、日本でも、たとえばオカルトぽい新興宗教の中で、波動とか、粒子とか、それから原子とか、そういう言葉を言って、科学的な根拠があると、たとえば、いわゆるアブナイ電波みたいなものがビビビッと出てて、それでテレパシーができたり、サイコキネシスができたり、そういうことをやたら言わないといけなくなったのは、どうしてかなーと思うんですけど。

 で、もう一つはですね、ずいぶん昔に大岡昇平と柄谷行人のやりとりがあった事を金井美恵子さんの「重箱のすみ」というエッセイで読みました。大岡昇平さんは重い戦争体験のある人ですし、柄谷行人さんは、文章の中にベクトルという言葉を使う人です、だけどベクトルって何ですか、精神世界の中で、具体的なことを切っていくのは、あるいはロジックであったって、そのベクトルという理系の言葉を使えばいいっていうのは変じゃないかと、私でも思います。大岡さんは柄谷さんをそうやって批判したんだけど、柄谷さんがいつまでたっても分かんないものだから、あきれてしまって批判するのをやめてしまった。ふーん、その後現在に至るわけか。と私はつい納得してしまったんです。つまり文学というものが理科系の下におかれる、どうして下におかれるかっていうと、お金に換算できないからだ、数字が入ってないからだ、理系っぽくないからだ、経済成長に合ってないからだ、そういうふうなおかしな世界ができてきて、そしてそれが文学のほうに投影されたときに、ずいぶんと歪みが出てきているのじゃないか。

 でも、女の人はずっと頑張ってきてるわけなんですよね。女の人は頑張ってるのだけれど、男が座談会に出てきて、男の人だけで座談会をして、その中で文学はだめだって言うんですよ。たとえば私は、売り上げと文学を一緒に計るってことは、絶対してません。だけど、一番よく出るいいがかりの例として言いますと、たとえば文学は売れないからだめだって言ったって、川上弘美や柳美里は売れてるんだけれど、そのときは勝手に女を文学から排除している。それから女の人が一生懸命論争をやっていますけれど、私のように。でもたとえば今月号の『群像』(2003年11月号)に載っていますけれど、島田雅彦さんが要するに江藤淳は論争したけれども、今は評論家もとことん論争しないからだめだと言っている。だけど島田雅彦本人にしたって、金井美恵子からずっと徹底的にボロクソに言われてやっつけられているのに(笑)。あるいは柳美里が福田和也を強烈に批判したり。柳さんと私の小説は、違いますけど、だけれども武闘派と言ったら今は女です。私は私で12年間、売り上げ文学論を批判し続けているのに、そのときには、男が参加してないから、何の意味もないと言う。

 あるいはもし日本文学は国際的でないと言う人がいたら、多和田葉子さんという方がいます。エクソフォニーというのは新しい概念なんですけど、それも紹介したり、外国で活躍しててですね、この前もドイツのラジオ局を連れて、私のところに取材に来てくれたっていう人なんですけど、ドイツ語と日本語の両方で小説を書くなんて事やっていて、そういう人たちがいるわけです。基本的には、山田詠美さんにしろ、河野多恵子さんにしろ、私にしろ、多和田葉子さんにしろ、金井美恵子さんにしろ、今ここには私の読者の方が多いっていうことだけど、こう聞いただけで、気に入った作家の名前が出てきたと思います。女の人はみんな頑張っています。それから年配の人やマイノリティ作家も頑張っています。書く事がいっぱいあるからです。にもかかわらず「文学はだめだ」というのは、いつも男です。腑抜けの(笑、拍手)。

 しかしですね、ここに来られた方々は、物事を具体的に捉えるっていうことを知っていらっしゃる方で、「売上文学論」と私は名付けましたけど、売り上げで文学の価値をはかるなんて、「そんな事馬鹿げてる」とすでに判っている方々ばかりでしょう。ですので申し上げたいのはそれが、売上文学論が今の世相そのものだという点です。たとえば、宗教っていうのは祈りですよね。祈るっていうことは、私は今千葉県にいますけど、千葉の佐倉というところで、すごく目立つのが道祖神で、馬頭観音の道祖神というのもいっぱいあります。中には戦争で戦地に取られてしまった馬のために建てたものもあるということです。農作業で牛や馬を使っていて共に働いていくんだけど、牛や馬が死んだときにどうしてあげるか、仏教思想というのは差別的なところもあるんですけど、生き物に寄るところもあって、どうしようもないから塔を立てて祈るんだろうなと思ったんです。また元々道祖神自体には旅の守りや、村の境界の守り等やはり素朴な願いがかけられています。「まかた」神社という変わった神社もあって、それは「うかのみたま」っていう外宮の祭神のお母さんで、イザナミのおしっこから生まれたともいわれている神様です。この神社があって、これはどういう神様かというとすごく分かりやすくて、一説には焼畑農業の神なんですよ。排泄物が土を潤して、そしてまた作物が実ってくると。そこまで言ったら民俗学者は苦笑すると思いますけど、私の勝手な連想ですけども、たいへん素朴な連想で言えば、祈ることというのが例えば農業にあり、山の動物たちが畑を荒らさないようにしてほしいというような、そういう単純な祈りがあって、そう祈りながらも自分が努力しなければいけない、何か信じなきゃいけないけど、だけれども結局はその祈りがもしかしたら裏切られるかもしれない、無効かもしれないけど人は祈らずにはいられない、という事です。という事は、基本的には無償の行為です。古代ならマジカルなものを信じたろうけど、原始宗教でも効き目のない神を使い捨てにするタイプのものもあったようですし、ましてや今の時代に本気で現世利益を求めるということではない。その無償の行為の中に、ベクトルとか、電波とか、見返りとかそういうものは本来入ってきません。しかし科学とか称して、病気が治ります、ガンが治りますと言うから、手かざしをしてその手から粒子が出るとか、そういう言い方をしなきゃいけない。

 だってどうして科学なのか、祈ればいいじゃないですか。最善を尽くして、祈って、私も神様を頼ることはあります。お祈りするのは文学の神様ですけど。そして、その神様が何の役に立つかというと、基本的にはどうしてもできない仕事があったときに、あのー、私は靖国神社とか大嫌いで、べつに共産党員じゃなくて、セクトでもなくて、広い意味で、反権力でありたい人という程度のことです。だから靖国神社とかは大嫌いですけど、だけれども神様には祈る。まず戦い方を教えてくださいと、眠る前に祈る。朝起きたら戦い方は決まっています。神様にきいたから。それとたとえば自分がものすごくお金も損するし、権力者にも嫌われるときでも、モラルとロジックを立てなきゃいけない、戦わなきゃいけないときは、「神様、私を守ってください」と言って、そして自分が損をしたり、権力と戦ったり、あるいは脅迫電話をかけられたり、それから一遍もあったことのない男の人とのスキャンダルを書かれたり(笑)。そういうことと戦わねば仕方のない状況になってしまった時も祈るしかない。この間も、笑った人に言いますけど、『噂の真相』っていう雑誌があって、ここに岡留さんっていう編集長がいて、この岡留氏から詫状を取っているのは、あくまで一説ですけど右翼の大物と私だけではないかと(笑)いわれているのですが、この前その詫状を取ったバックナンバーを、また販売したので、もう一回小競り合いをしまして、二通取りました、金庫に入っています(笑)。反権力とかいっても男はこんなもんです(笑)。私は何を喋っているんでしょう(笑)。

 科学っていうものは、なきゃいけないものなんですよ。大槻教授が言っているように、オカルトなんてのはインチキですよ。だってオカルトなんか言わなくても、もしも心の事が大切で、日本語が大切だったら、言葉で言えばいいじゃないですか。昔の教祖様みたいに、人間はどう生きるべきかとか、どうやったら癒されるか、何のために祈るのか。いや、そう言うより以前に、たとえば自分の親や子供が死にそうになったら、祈らずにはいられないですよね。その祈りの気持ちがどうして電波とか薬とか数字とか、あるいはベクトルに換算できるんでしょうか。祈りの気持ちを粒子にしてもし計ったとして、その計ったことに何の意味があるんでしょうか。科学的な実験としては結構なことかもしれません。だけど日常生活の中では、それは基本的には無です。後々何かの役には立つかもしれないけど、それによって全てを規定して、祈ることは無駄だとか、心の世界は益が無いだとか、文学は文系だからつまらない、だめだ、というのは全く同じようなことだと思います。

 たとえば一番極端な例では、大槻教授という方は、オカルトと戦っているときには立派なんですけど、最近の文学について、ものすごく浅はかな発言があります。日本文学は20年読んでいない、くだらないからだ、と言う。これをロジックで見てみましょう。20年読んでいないものが、なぜくだらないと分かるんでしょう(笑)。明らかに論理が破綻しています。もう一つ申し上げます。シドニイ・シェルダンだったと思うんですけど、シドニイ・シェルダンなどという引っかかりやすい、本当にマーケティングして拵えたようなものを、彼はおもしろいと言います。そしてシドニイ・シェルダンは何千万人もの人が世界で読んだ、だからいいんだ、と言います。それが日本文学より外国の文学が優れている証拠だというのですが、もし一千万人信者が宙に浮かんだと言ったら、オウムの教祖は宙に浮くんでしょうか。要するに数字と言うのはそういうことです。数が多いからといって、真理だということではありません。数が少なくても、真実をついていることはあります。

 ただしこれには一つの、欠点というより難点があります。どうしてかと言うと、数が少ないということは売れない、ということです。弱肉強食の世で金は力です。数は力です。だけどそのことと、数が少なくても価値がある、ということとは違います。たとえば相対性理論が意味のあるものとして認められていますけど、本当に分かる人が何人いるかということですよね。それと同じようにして、文学でも、新しい日本語や、新しいものの見方や世界を作ったり、あるいは実体のあることを伝えようとして頑張ったり、いろんなやり方をしてます。私と違う人もいるし、いろんな人がいるけど、言葉が大切だということは、それが何語であれ、全世界で 共通のことだと思います。

 今日はアメリカ文学会だというんで、じつは笙野頼子なんて外国も行った事がないし、携帯電話も持ってないし、パソコンも持ってませんので(笑)、少しはアメリカ文学との接点をと思いまして、じつは巽孝之さんに招いてもらって、ラリー・マキャフリーさんのお別れ会に行ったことがありました。そのときの本を、『渋谷色浅川』っていいますけど、少し朗読したいと思います。というのは、外国の文学事情と日本の文学事情で共振しているところがあるからです。私、自分でアヴァンポップ作家って名乗っていますけど、それはどうしてかっていいますと、私の書いているものの中にSF的影響というか、SF小説を読んで何か刺激をされて書き始めたということがあるのと、それからどうしても私の側のものの見方と世間のものの見方が、あまりにも違いすぎるようなところがあって、そのまま事実をきちっと記載していっても何も思うことが通じない、だから幻想を書いたり、あるいはたくさんの事実を一気に、たとえば夢の技法を使ってデフォルメして書いたりして人に伝えるっていうことをやってるんです。それゆえ作品の中に幻想シーンがたくさん出てきますが、基本的には幻想小説っていうのは、ファンタジー小説なんかはそうですけど、例えばこの間もたまたま、アニメの『ファイブ・スター・ストーリー』というのを見たんですけど、そういうまるっきりのファンタジーっていうのは、私には縁がない。別に好きな人は見ればいい。でも、実を言うとまるっきりの古いリアリズムだけでは私は書けない。というよりリアルとは何か?じゃあ少しでもファンタジーが入ってたらだめなのかっていうことを、私は思うわけですよ。今も筒井康隆さんを読んだときはすごいと思います。でも私はもう少し現実に近いところで、ましてや女性として、社会に違和感を持っている人間として、別の形で幻想を書きたいと思うようになってきたんです。そうしたときにSFから小川国男とか藤枝静男に行ったんですけど、そういう私の作品を、巽さんはアヴァンポップではないかとおっしゃいました。そういう風におっしゃった契機はというと、90年代に私は『硝子生命論』という小説を書いたのですが、そのちょっと前に、ナノテクSFというイギリスのSFを読んでいます。ちょっと名前を度忘れしたんですけど、人形愛を男性が書いていて、人形愛といってもロボットのようなイメージだったり、あるいは人間が着ているラバーというか皮膚の感覚が偏愛してあったり。だけどストーリーは生きた女の子をさらって人形にしたてる、そういうところがあって、単に人形を女性支配の方便にしてあるだけだったら、それはおかしいんじゃないか、逆に人間の消えた世界を、男性憎悪としての人形愛を書いてみよう、あるいは人形と人間はどんなに違うのか書いてみようと思って、『硝子生命論』というものを書きました。その中には、人間以外の対象に心を寄せることにどんな意味があるかという問いがありました。人の空想の中の、心の動きです。ベクトルでもない、電波でもない、心の動きというものを判りたいのだと、それは何だろうっていうのがありました。それと同時に、人間とは何かを規定しているはずの、人間の造った国家の不安定さあやふやさを描きたかった。作品の核に現実への疑問があった。そのときに幻想とかSFを手法として取り入れないと、私の作品は成立しなくなっていたんです。それ以前にも『居場所もなかった』っていう作品等で、幻想などを取り入れました。そのときは、独身の中年女性が住む部屋がなくて部屋を探し回っているんですけど、その辛さを短い枚数で表すために、夢の手法を使って、たくさんの不動産屋のカウンターが一列に並んでいるという描写をしたり、歩いていると足がくたくたになる、居場所もないし、ということを言うために、靴がなくて裸足で歩くという描写をしたり、そういう風なことをやりました。

 そういう風にして、SFの影響を受けながらでも、少しずつ私はアヴァンポップ作家になっていったということらしいんです。ただアヴァンポップっていう言葉は、一種方便ではないかっていう説をさっき聞いたのですが、つまりラリー・マキャフリーさんは古典的な文学主義者で、今の若い人に興味を持ってもらうためにアヴァンポップと言ったんじゃないかと、そういう説もあるということですけど、たまたまそのとき、巽さんたちと交流した中で、純文学とSFは一見似てくるところも出てくるんじゃないかと感じて、ここにそういう風に書きました。

 「一昨年の終わり」という書き出しで始まりますけど、これは確か1998年だと思います。「確か12月の中旬。まだクリスマスには間があり、雪は降ってなかった。グリーン・クリスマス。メリー・アヴァンポップ。ちなみにアヴァンポップってナニ。アヴァンは前衛。ポップは通俗。流通しはじめてから十年近くたつ言葉で、今では現代用語辞典にも載ってるそうだが、そういう用語辞典を決して読まない人が例えば「文学のジャンルがなくなったので――」などと、勝手に言っているかもしれないので、こっちも勝手に言う。『名手により洗練されていく最先端ジャンル小説と形式を破りながらあらゆるジャンルを貪欲に飲み込む最先端純文学との相互最先端部分の共振現象である』とかなんとか――以前にもエッセイに書いた。が、こういう言い方は私的見解の上に多分物事の一面を切り取っただけ。でも紹介者の乾氏本人」、乾さんってなってますけど、この部分は巽さんのことをモデルにしてる。あくまでも小説ですけれど。「本人からは(許してくれただけかもしれないとはいえ)苦情等はなかった。」ここでアメリカの文学者と交流したんですよ。そのときに来られなかった方もいらっしゃると思うので、朗読します。

 場所は中目黒というところで、オーガニックカフェというのはすごくおしゃれということで、ちょっと前まで流行してたんですけど、流行する半年くらい前からこの人たちはこの店を見つけ出して、ここでパーティをやってたんです。「オーガニックカフェ。20分遅れた。定刻に中目黒についていても細道に入るだけでもう迷うのだ。」どん臭いです、私は。「入っていくとちょっと驚かれる。でもそれは遅刻したせいではどうもなさそう。/『あー外国のパーティしてる。だって人の群れてるとこの腰から下が妙にすらりとしていて空間が空いてる。しかもみんなすっきりした色の服着てるせいで、背イのチイサいところの日本人のプロポーションも同じように見える』。――フローリングの広い店内の奥の壁に外国の雑誌がずらりと立てかけてある。部屋の真ん中に小さい机とパソコン、テーブルは全部奥の壁際に寄せてあった。その上にカリフォルニアワインの大きな瓶が冷やしてある。領収書を貰う。輪に歩み寄るとアメリカの学者のようにはっきりした色使いの、スーツとネクタイをした乾信彦さんが、こっちに気付いた顔と神経の通った鷹揚さで片手を動かしつつ、人の中心から抜け出て来た。/店の右手奥にプロジェクターがあった。タートルネックにツイードの上着を着た、昔の南こうせつみたいな髪型の男性のスピーチになった。彼がマーク・アメリカ、乾さんは素早く教えてから、ラリー氏シンダ氏に引き合わせてくれる。」シンダ・グレゴリーさんとラリー・マキャフリーさんです。「私、既にやけくそモードに突入してしまったので、」というのは先程申し上げました、英語出来ませんから、「全部日本語で完全ににこにこしながら三重県的挨拶を長々やってのけた。以前にラリー氏と日本文学の話をしてて、」ええと、それでここなんですけど、「日本文学のコアと言えるその上志賀直哉の弟子の、止めに(日本国内では蛇蝎のように嫌われる)白樺派入ってる」、藤枝さん自身は人気あるんですけど、また蛇蝎というのはあえて大げさに言っただけですが、白樺派っていうと、一般読者の中には一瞬引く方もいますから、「藤枝静男が、私小説を極めて幻想的に変容したと、『田紳有楽』の説明をした。」藤枝さんっていう方は私小説の極北でありながら時にリアリズム描写を突き抜けて幻想的な作品を書いた天才です。それから自分に厳しく約束を守る人で、他人を助けてかばって共産党の容疑を掛けられて、藤枝さんは何もやってないのに牢屋に入れられて、体に拷問の後遺症が残った、そういう方です。かつての『群像』を代表する作家の一人でした。この『群像』という雑誌は戦前のファシズム社会から戦後民主主義への激変の中で、出版社としての文化的新生をかけて昔も今も経営の優良な大企業といえるある出版社が創刊したものです。半世紀前、戦争に協力したという嫌疑を持たれたその会社は、その後50年以上も、このまさに文化事業的な雑誌を採算を考えずに引受けてきた。しかし最初は戦中の記憶もあり、拷問の後遺症の残るような左翼作家たちは書かなかった。でも最終的には純文学作品を寄せるようになった。そういう経緯があって、この雑誌から百万部作家が次々出ていた20年前でさえも、この雑誌には完売で赤字の定価がついていたそうです。文化事業によって社会に貢献出来る志と経済力のある企業にしか出来ない行いで、元々、ここは本業が不動産と言われている程です。その経済力を背景にしているので、大きい出版社の中でも社員の給料が高いのでは、と言われています。まあそういうような事情があって、その結果つい最近まで『群像』という雑誌は、純文学の牙城でした。今は版元自体は大丈夫であるのですが、その『群像』の現場だけが相当心配なことになっています。そのことはもし時間が許せば後でお話しますけど、とにかく「田紳有楽」というのは、藤枝さんが安易な御伽噺や単なる願望充足としての幻想ではなく、それこそ人間とは何だろうという問いかけや、世界とはなんだろうという問いかけのために、金魚と茶碗が結婚して子供が出来たり、そういう話を書かれた、そういう小説です。その「田紳有楽」の話をラリー・マキャフリーさんにしたら、「するとたちまち相手が『それはジョイスにも起こった事だ』と言ったのをまだ覚えていた。会ったという感触は薄いにしろ、「発見」だけは強烈に通じてたことを思い出したのだ。ラリー氏の来日中の連絡先になってる成城大学の先生と話すと、対談して貰った本がアメリカに届いていないと判る。アメリカって多い名前なんですか、と尋ねると「カフカの『アメリカ』好きだって言ってたからペンネームだと思います」とも。アヴァンポップをもじってアヴァンポルノなんて言ったので笑ったんだと教えられるが、ポルノ、のポーン、と聞こえる語感が英語圏の中でどう響くんだろうとか思ってしまって笑いそこねる。」ここでは言葉がわからなくてうろうろしたりして、それからハイパーテキストていうものの説明を受けたんですけど、「最初からプロジェクターに映っていた映像がそれだったのだ、車窓風景やゴリラの顔が環境ビデオとも記録映画ともつかない風に流れていて、そこに生き物のように活字が走る、というか現れ、流れる。英語と列車とゴリラ、が交錯する。自分や他の純文学新難解派の作品で、活字が生き物のようになっているところをすぐ連想した。目の前にあるのはパーティのためのビデオだが普段はインターネット上で見ることが出来て、パソコンから書き込みで参加出来るのもあると教えられた。こんなことをいちいち教えてやらなければならない作家は自分位だろうと悩む一方、墨絵に漢詩を書いたり、句会をパソコンでしたりというところを連想して、実験というより遊び心を感じた。絵画と文字を共生させる事は東洋の習いだ。楽しみながら仲間で作品を作るというのもそう。また、活字が何か生き物の体感を持って景色の中にあるというのもちょっと嬉しい。墨絵とパソコンだ。その事を自覚できていれば私でも楽しめるかも。」

 その西洋の人が自由に得た発想が、じつは東洋にもある、映像というのではないですけど、絵と文字が共存する、それで主人公は嬉しくなる。さて、ここのテーマとはちょっと関係ないんですけど、最後に言いますけど、メチャメチャ面白い事がありました。というのはこのとき小谷真理さんがテクチュアルハラスメント訴訟というのをやってまして、この小説にも出てくるのです。小谷さんと巽さんは結婚してるんですけど、この二人は同じ本の書評を書いても全然違うし、論文やってるときのロジックの進め方も、私が読むと全然違うんですけど、どういうわけか、小谷さんが書かれたことを、巽さんの仕事だというように言い拵えて、それをインターネット上の事典みたいなところで、つまり冗談でもなんでもなく、それこそ百科事典を開くと載ってるみたいな感じで、女の人がしたことを男の仕事だ、小谷さんは何も書いてない、巽さんのペンネームに過ぎないということを書いた人がいて、それは何年も訴訟になってたんですよね。そのときにこのパーティをやっていろいろ話を伺った。

 この訴訟された人がどういう人かというと、山形浩生という人で、東大を出て大変な大企業のシンクタンクか何かに勤めてる人だって言うんですけど、まったく何を考えているのでしょう。もしやインターネットとかコンピュータというものが、ちょっと何か冗談っぽいというか、活字になった本とは違って、胡散臭いというんではないですけど、現実感が薄いところがあるからそうなったんじゃないかと私はこの『渋谷色浅川』に書いたんですけど、こういう人たちはでもあちこちにいます。そして本は売れてなんぼだ、売れなきゃいけないんだと、そういう売り上げ文学論なんて言いましたけどそういう金の亡者の態度と、テクハラ等のそういう卑劣な態度とは見事にリンクしてるんじゃないかと、私はずっと一冊の本に書いたり、論文に書いたりしてきたんですけど、この山形浩生さんが最近何をしてるかということをご報告申し上げます(笑)。訴訟に負けたら、今月号の『群像』になんと売り上げ文学論を書いています。後って言ったけど面白いから今読もうね(笑)。だって電車の中で読もうと思ってたまたま持ってきたらのってるんだもの。すごいんですよ題名が、「小説の効用分析とその未来を考える」。さっき申し上げた、宗教の祈りを電波にしたり、文学の文章の美しさをベクトルにしたり、治療するとか人間の免疫抵抗力が上がるということを何か物理学的に言ってみたり、祈れば何か物理学的なものが出る、そういう感じのものと、この売り上げ文学論とがどのくらい似てるか。『たかがバロウズ本』という本を紹介してるようですけど。この人は要するに、本の効用が高くないからだめだ、と。「じゃあどのくらい高くなるべきなんだろう。1950年代に比べて、今の日本の一人あたりGDPは40倍くらいになっている。ただし物価水準が6倍くらいになっているから、実質ベースだと差し引きで7倍くらいと考えようか。さて、本や小説が与える効用は7倍になっているだろうか。」つまり、物価に釣り合って、本の効用、と言うんですけど、そうなっていない。じゃあ、なぜそうなっていないのかと言うと、文化娯楽的な経済活動のパイは拡大し続けているけれども、パイの取り合いになったからだと。つまりエンターテインメント活字商品とそれ以外のたとえば純文学等の区別が、この人はつかない。その場しのぎの刺激、つまり電車の中で立っているのがつらいから、何か別のことをしようと、スポーツ新聞のエッチな記事を読んでもいいから、あるいはゲームをしてもいいから、携帯で喋ってもいいから、何か時間を紛らわしたい、つらいことをやり過ごしたい、そういう人たちが娯楽を求めるというのは必然的なことです。だけどそういうものと比べて、日本語とは何かを考える、あるいは新しいものの見方を考える、それを学問の専門的な領域じゃなく、全人的に一人の体の中でやる、そういう文学の効用というものを、この人は全く判っていません。だからお金の話をしてるのです。それからその次に、「さて小説はどうだろう。ぼくはそれが7倍になったとはとても思えない。」「あるいは、新しく生産されるものの感動を比べてみようか。昔の人が川端康成を読んで得ていた感動と、今の人が、うーん、たとえば同じ川がつく川上弘美の新作を読んで得ている感動とを比べてみよう。アドレナリン等の分泌量をきちんと測定した研究をぼくは見たことないけど」、見たことないのに、なぜ言うんでしょうね、「でも恐らくそこに7倍もの差があるとは思えない。」なぜ思えないんでしょう、誰が思えないんでしょう。思えないというのは、それは山形浩生さんご本人です。どのような方かというと、女性が一生懸命書いた「エヴァンゲリオン」論などを、旦那が書いたと言い切ってしまうような方が思うことです。マスコミに出ていようが、ご立派なシンクタンクに勤めていようが、この方はそういう無責任な方です。その方が「思えない」と言ったからといって、それでどうして信じなきゃいけないんでしょうか。

 そしてこういうパターンの場合その後に必ず出てくる面白いことがあるんですけど、ほら、出ています。「テトリスとFF」このFFというのは「ファイナルファンタジー」というものだそうです。私はゲーム機も持ってませんので、全然知りません。昔卓球ゲームとインベーダーというのをかなりやったことはありますけど(笑)、すごい下手でした。あの頃ゲーム1回で1万円くらい使ってしまったこともあるんですけど、その後はたまごっちとドラキュラくらいです。で、「テトリスとFFの差と比べても、かなり小さい差にしかならないだろう」って書いてるんですが、このテトリスとFFという言葉に年寄りがびっくりしてひっかかると信じているのか。アドレナリンもだけど、ゲーム用語が理系っぽいとでも思っているのかしら。はやりものさえ出せばいいというのもこの人達の理性のなさを現しています。でもそもそも川端康成と川上弘美となんで比べなきゃいけないんでしょうか。川上弘美さんは新しい女性文学で、現実を新しい形で切り取る人です。川端康成さんはというと、なんと言っても川端康成です。そしてこの二人を比べる時、彼は文章の中で「うーん」と言ってます。これは考えてるのではなくて実はブリッコです。この「うーん」ひとことで現実感覚を喪失することが出来る。これこそが最近のブリッコ愚民の特徴です。そもそも彼の言う効用とは何でしょう。この効用とは文学の効用でしょうか、それとも経済効用でしょうか、もしも経済的効用を果たしていないとしても、経済以外の部分で効用を果たしていれば、結構なことだと思いますが。

 とりあえず、まず文学がダメだという時はいつでも、女の人が頑張っていて、ダメだといっているのは男です。そして男の人は、たとえば女房がものすごく弁の立つ人で、旦那に向かってバリバリものを言ったとしますよ。そうすると、旦那は殴るかもしれません。だけど殴れない人は「誰が食わせてやってるんだ」というんですよ。これはどうしてかって言うと、理屈に負けたから金の話をするのであって(笑)、まさにこれと同じです。しかもひどい事に「食わせてやってる」と言ってるのが旦那なら少なくとも給料は運んでくる。しかしこいつらは一銭も出してない。要するにただのいいがかりです。山形浩生さんという方は小谷さんをすごく妬んでるわけで、オリジナリティが無いわけですよね。オリジナリティの無い人は、妬むわけですよ、女を(笑、拍手)。私なども妬まれるわけです。私が妬まれて何を言われるかというと、「笙野頼子はブスだ」ということはいくらでも言ってもいいんですけど、「福田和也が女装したのが笙野頼子だ」とか(爆笑)、でももっと陰険なのは、「ブス」という言葉を29回見開きで使ってある作家論がありまして、ここには小池真理子には会ったことがないけど、大変美しいと思われる。松本侑子にも会ったことはないが大変美しいと思われる。誰それにも会ったら大変美しかった、とあって、笙野頼子はブスを名乗っているけれど、近所の本屋さんで聞いたら、最近笙野はきれいになったという、少なくともものすごいブスではない(笑)。でもその後がすごいんですけど、でもすごいブスと名乗っているのは要するに、あの人はブスだから、で許されることが多くて、許してもらおうとしているのだ(笑)。ブスだといって許されて、それで論争に勝っている、ということです。この人がどういう人かって言うと、永江朗っていう人で。何かどんどん話がそれてますけど(笑)、何話してるんだろ(笑)。

 えーと、それでは外国の純文学事情というのをちょっと読み上げてみたいと思います。マイケル・キージングという方と、この巽さんのパーティで合流しました。どういう人かというと、「痩せてて眼鏡掛けてて髪の毛かまってなくて、一見攻撃的に見えるけどニコニコしてる人物。」しかしこの人は『ゲイシャ』というアメリカの小説をすごく女性差別、日本差別的なところがあると言って批判した人です。この前長澤さんから本を贈っていただいたんですけど、日米関係とかそういうことを戦争映画から分析した『日米映像文学は戦争をどう見たか』という本ですが、ようするに具体的にものを捉える人というのは、たとえば戦争はなぜいけないかとかなぜ人種差別があるかとか、そういう抽象的なことばかりではなく、具体的に、たとえばこの戦争映画のこの場面に登場した日本人がどういう顔をしてるかとか、どんな印象か、そういうことを具体的に詰めるんですよね。この人もだから、『ゲイシャ』という小説を具体的に分析しています。「ロシア系ユダヤ系アメリカ人で、ブラウン大学出身。渋谷に支社のある学術誌『プリンストン・レビュー』の編集者を務めつつ、日本でも書き始めた作家だという。」

 この人の作品の日本語訳で読んだんですけど、正直男性の作品なので、『赤毛のアン』を好きな日本女性とか、それから日本の女子高生とかを結構パターン化してあって、そんなに納得できない部分もありました。だけれども何か文学に風穴を開けようとしている人だとは思いました。「アメリカで日本の新人賞と同ランクにあたるMFA―創作科修士号を取得しているそうだ。その彼に私は「論争」モードのまま」、純文学にあたるものは外国にもあるかと聞いてみました。但しここで日本の今の「純文学」について一言おことわりします。日本の新しい純文学というのは、従来の私小説と心境小説という分け方ではもうとらえられません。私がもし純文学だと古い定義からはみ出してしまうのです。そういうものがこれまでの純文学という制度を借りて、売れなくてもやっていけるシステムの中で細々とやっている、もちろん一筋続くものはあるのだし、私もその流れを受け継いでいます。ただし設定、文体、外見は変容しています。名前を変えればわかりやすいんですけど、変えちゃったら全部見えなくなっちゃうし、議論に不便だし、マスコミはずっと純文学と呼んで攻撃し続けているんで、受けて立つにはそう名乗るしかない。それに少なくとも、「論争」を始めた時点では、私は彼らが批判する「最近の芥川賞作家」でした。「その彼に私は『論争』モードのまま、日本で妙にマスコミが言う『外国に純文学と大衆文学の区別はない』という言い方について尋ねてみた。というのも、――ロサンゼルスのブックフェアに行った翻訳者から知人が通訳して貰って聞いてきたというのだけれど、リテラリーフィクションとコマーシャルフィクションという区別がアメリカにはあって、アメリカの新進作家と話しているときにその単語が出てきたというのだった。『自分は文学部の創作科つまりクリエイティブライティングコースにいてリテラリーフィクションの書き方を勉強した。しかし向いていなかったのでコマーシャルフィクションの作家になった。そもそもこのふたつはまったく違うもので市場も違う。だから自分は今はまったくリテラリーフィクションとは縁が切れている』――たったこれだけの内容だが、人から聞いただけでは心もとない。乾氏にまた通訳して貰いながら、ピュア・リテラチャーという言葉を尋ねるともちろんない。が、リテラリーフィクションという言葉はすぐ通じる。『トマス・ピンチョンはどちらですか』、と聞くと、『それはリテラリーフィクションだ』と答える。でも『シリアスノベルがアメリカの純文学でだから純文学は深刻ぶっててつまらないという意味だ』といったような言い方は随分活字になってるはずだ。リテラリーって言えば今のも入るんだろうか。」

 それから売り上げ文学論って言いましたのは、要するに売れないものは価値がない、という論です。ドフトエフスキーの本とゲームの攻略本は比べられるか、あるいはロリコンマンガと純文学は比べられるかと。売り上げだけ比べてロリコンの勝ちかと。例えばロリコンが少女の襲われるマンガ見たくて本を買うとします。じゃあそれと、勉強しようというか何か新しい世界に触れようとか気持ちの良い日本語に触れようと思って売れなくとも普遍性のある純文学の本を買う時の動機は同じなのか。自分から目をそむけない、地に足をつけた金の使い方とそういう性欲に負けた本の買い方、あるいは文学作品は図書館に行って借りていらっしゃる人もいますけど、そういうのと、一方は例えば少女の襲われるマンガが見たいからという特定の欲望や弱みにつけ込んだ商売。そういうロリコンマンガ雑誌が売れるというだけでなぜいばるのか。まあ、どうしてロリコンマンガが出てくるかって言うと、それはあとで説明しますけど、とりあえず売り上げ文学論というのを、マイケル・キージングさんに聞いてみました。アメリカでも売れないからダメだという言い方はあるのかと、そうしたらアメリカにも純文学批判はあるけど、「売り上げ文学論」という言い方は通じなかったわけです。で巽さんが疑問を解いてくれたんですが、「アメリカにも純文学批判はあるのだ。が、それは知識人嫌いの風土に根ざしたもので――too intellectual, self-indulgent,non-realisticというような批判に限定される。つまり思想的批判だ。そしてそのレベルがどうであれともかく『売り方売り上げがどう』などと言う言い方で物を言う程のstupidなものはいない。初めて聞いたアメリカの作家にはとっさに想像も出来ない程低レベルの話だったという次第なのだ。」そして彼は言います。「自分は売れ線なんか狙ってない自信持ってる。ピューリッツァー賞、全米図書賞はリアリズム中心だ。ポール・オースターが売れてもシドニー・シェルダンのような売れ方はしない。シェルダンが今言ったような賞を取る事はない。コマーシャルフィクションの多くはモダニズム以降のテクニックを盗んでいるし昔の小説のコピーに過ぎない。――と彼は言った。スティーブ・エリクソンは売れる事なんか気にしないし大学の先生になれば生活も保障されるのにならないで一本気に小説書いてると乾氏が言う」。その中でですね、「乾氏が私の小説の中にあるラブクラフトの影響を指摘するまで、私は自分が昔ラブクラフトを沢山読んでいたことを思い出せない。」これがまさに私がアヴァンポップだということだと思いました。「ええと確かクトゥルフ神話だっけか、とあやふやに言うと今度は(アヴァンポップの関係者がいる)ブラウン大学のある、ロードアイランドはピューリタンの異端審問にかけられた人々が追放された土地で、ラブクラフトの出身地でもあるのだと教えてくれる。」つまり国家神道とかキリスト教とか正しい宗教や国家幻想から追放されたものがSFの中に忍び込んでいて、私はそれに感応したということです。どうして感応したかというと、私は伊勢育ちです。つまり神仏習合とかが明治維新政府以前から遠ざけられてて、まあ明治以前なら習合は経済的理由等で相当あったんですがでも、その当時でさえお寺を追い出したり山伏を追い出したりというような、神道がまさに正しい形で保たれた伊勢という土地で育ったからです。神様といったら天照大神で、鳥居といったらこういう鳥居で、全部そろって決まっている。四日市で生まれたんですけど、17歳まで伊勢で。そして神道というのが国家とか戦争というものと結びついていたじゃないですか。そういう気持ちがあって、私が素直に拝める神様というのは、ほとんどいないわけですよ。全部系列化されてて、神話まで決まってます。だけど佐倉という土地に私は引っ越したんです。そのとたんに判ったんですけど、たとえば鳥居でも、伊勢だったら例えば神明鳥居というのがあって、伊勢神宮系だったら神明鳥居になります。お稲荷さんの鳥居だったら明神鳥居だと。佐倉に行くとしかしこれがけっこう自由なんですね。どうしてかというと、祈る人というのは祈りたいわけですよ。祈るときに村の人が寄り合って勝手に神社を作って、神社の形式なんか二の次なわけですよ。もう一つ言えば中身も神仏習合のところが残ってて時には寺も神社も一緒くたになってる。つまり本来は祈る気持ちがあって必要とされたものが、いつの間にか国家宗教とか天皇制に民衆の祈りが収奪されて、そうして神様がいなくなって宗教に数字が入ってくる。神への個人的幻想も失われる。でも、ラブクラフトはやった。だけど要するに、私にとってじゃあクトゥルフ神話とは何かって言うと、それは出雲神話だったわけです。出雲神話っていうのは皇室に征服された人々の歴史であると、古事記の中からそれを史実じゃなく、切実な幻想として文学として読み出そうと思って、征服された人々の軌跡というのを古事記と日本書紀から辿りながら自分なりに妄想して書いたのが、この『水晶内制度』というものです。

 この『水晶内制度』って言う作品ですけど、女が女人国を作るという話です。というのも実は私はつい最近『群像』という雑誌で書けなくなってしまいまして、そのこととこの作品は関係があります。この事情はおいおい説明いたしますが、それでも細かいことは講演という形では判りにくいし何よりも時間が足りないので、実は今までに雑誌に発表したもののコピーを持ってきています。数に限りがありますが必要な方どうぞお持ちください。バックナンバーを買っていただいてもわかりますが。講演だけで全体を語れない部分はここに書かれています。私について批判でも何でも書く方はぜひお読みください。大変過激な言葉でやむにやまれぬ事情が書かれたものばかりで、それ故こういういきさつを発表した私よりもむしろこれらの記事を載せてくれた編集者の方の勇気を称賛する声が高い、というような性質の文です。コピーはそれぞれ2003年の『新潮45』5月号、2003年の『河南文芸』文学編創刊号、この河南文芸とは大阪芸大がスポンサーとなった新しい商業文芸誌です。また最後に最も事情のよく判るものは2003年『早稲田文学』11月号、これらを読んだ上でご判断を願います――

 さて、私はどうしてこれらを発表しなくてはならなかったか、というと、やはりひとことでは言いにくいのですが、つまりは21世紀の日本で本当に女の姿は男の目に見えているのだろうかという疑問を抱いたからです。戦後の男が女だと思って見ているものは或いは幼女のような、また人形のようなゆがんだ幻想ではないのだろうかと。大人の女は黙殺されてしまう、いない事にされる、見えなくされる、つまりそういう思いが頂点に達するような目にあった挙げ句私は『群像』という雑誌を去りました。ここに書かれた国は日本の陰画のようになっております。どういう国かと言うと、まず場所は茨城県、人口は茨城の半分です。国土は茨城と同じ場所に設定してあります。どうしてかと言うと、女の人しかいないからです。男の人はどうしているのかと言うと、男性保護牧場というところに閉じ込めてあって(笑)、女に好かれる男性しか生きられない土地です(笑)。しかしですね、見栄とかいうのを取ってしまうと、そんなに若い美しいだけじゃなくて、いろんな好みの女性が満足できるように、逆遊郭のような形でいろんな男性を飼ってあります。どうしてこんなことになっちゃったかと言うと、この人たちはフェミニストでもなんでもなく、ただむかついてる女たちで、学者フェミニストの理論をもあざ笑うという一番たちの悪い人たちです。ほんとにただ怒ってるだけの人たちで(笑)、しかしその怒りが、彼女らの国を成立させているのです。そして男性否定、憎悪、黙殺をするためだけに、本当はヘテロなのに同性愛的な生活をしたり人形愛的な生活をしたりして暮らしている。つまり男の人権ははなからありませんので、男に対する抑圧はたいてい黙殺の形で行われます。男という男はどんなに賢くても勇敢でも、そこにいてもいなかった事にされる、男のしたことは全部女の功績になる。弾圧する必要もない程の女尊男卑ゆえに、黙殺が出来るというわけです。それを芸術の分野でもまた歴史的にも徹底させるためこの国、ウラミズモ国というのですが、あらゆる捏造が行われます。例えばジョン・コルトレーンという偉大なサックス奏者がいますがこの人の作った曲を全部、奥さんのアリス・コルトレーンが作った事にしてしまう。そう、小谷さんの受けた被害を裏返しにしたものですね、まあ小谷さんは全著作について全面的に言われたのだからもっとずっと深刻な被害ですが、そして阿部薫というやはりサックス奏者がいますがこの人は無論男なのだけれど薫という名だから実は女だったという事にしてしまうのです。笙野頼子のデビュー作を書いたのが男だという説は、別に活字にはなっておりませんが、あったりしました。他にも女性作家がオリジナリティを収奪された例が取り入れてあります。しかもこのウラミズモ国の男たちは男自身でこの現状を肯定するような発言さえする。そしてそれが男にしては知的だということになって女から可愛がられます。さあ、最初に申し上げました、男、男、男、の座談会を思い出してください。別にこの作品はそれだけではありませんけど。つまりですね、さっき申し上げたSFと神話ですね、この国の女性たちはこのように国のコンセプトが他国とは違いすぎるために独自の女性中心神話を求めておりました。そこでこの国に招聘されて女性神話を創作させられるのが元々日本で日本神話の書換えを志していた主人公です。彼女はこうして出雲神話の中から男社会に消され、抹殺され黙殺された女性神や太古母系社会の姿を発掘するようになった。それもこの小説のテーマになっています。そう、SFから私は神話に戻ったのです。しかしそれは元の神話ではなく女性のための神話です。まだまだ書くことがあるから書く、新しい女性文学を私はやって行きたい。それが新しい純文学であって欲しいという祈りをこめました。同時にそこにはまたひとつの現状告発というものも含まれていました。このウラミズモ国では実は少女のロリコン的データを日本に輸出しています。そして日本で犯罪を冒したロリコンを引き取って小学校や高校で観察し、処分するかどうかを学校の生徒たちが決めるのです。このエピソードは、女性が見えなくされる、売れる、偽の、ロリコン的少女がメジャーな文化、正しい文学とされる現状から発想されました。といっても現実の島本理生さん綿谷りささんのような人がデビュー時に少女だったからどうという意味ではありません。彼女らはむしろ、純文学を叩く側から叩かれる、本物の生きた少女であり男の勝手なロリコン幻想をうち破る新鮮な存在だと思います。例えば「リトル・バイ・リトル」を見ても判るようにデフレ下の、暴力のトラウマを抱えながら粘り強く生き抜くしぶとい少女です。つまり少女を利権化したいような勝手な男たちからだと彼女らはむしろ嫌がらせをされています。そしてカマトトや男の書く贋の、ロリコン少女の方はというと褒められるのです。この小説に出てくる、児童ポルノと児童文学の区別がつかない日本というのも、私なりの皮肉です。

 もちろん、別に私の小説は告発の具ではありません。ただ私にとっては生きて怒って戦うという事、我慢してその戦いを冷静にやるという事、そういう事と書くという事がまさに同行するのです。生きて戦って書いていくことです。そのちょっと面倒な経緯を今からご報告します。というかこれを待っていらっしゃった方も多いと思いますが。

 12年前から私は、文芸誌は売れないと批判する人たちを批判してきました。12年前というと『何もしてない』という最初の本が出る前で、やっと自活しはじめた時です、そのころはバブルの頃で家賃が高かったんですけど、街道の交差点の上にある部屋で、一年住んでたらガラスがひび割れてしまったという部屋ですけど小平で、家賃5万6千円も払って住んでたんです。そこに越すちょっと前に見つけたのが、「売れない文芸誌の不思議」という記事です。書いていたのがロリコンマンガ雑誌の編集者だった人とはまさか知りません「手塚治虫」の名を出し十万とか百万とか売り上げをほこり、すごい大物かと思いました。マンガ代表かと、しかし彼が以前に手がけていたのは白夜書房というところのロリコンマンガ雑誌『ブリッコ』というものだそうで、そういうのを拵えていた大塚英志という人で、今文学の関係者ですって顔してますけど、はっきり言って彼は何もしてません。昔からこういう嫌がらせをやっていたんです。見出しを読みます。「読者は日本で300人ぐらい?」そんなことありませんです。300人でも結構なんですけど、いくらなんでも少なすぎます。ここまでくると中傷だと思いました。「単行本ならば10万冊で当然」これはマンガとかコミックならそうなんでしょうけど、でもどうして、その一方昔の『ガロ』にあったような売れなくても個性的ないいマンガもあるはずです。「売る気ならばきっと売れる」とかもうマンガも小説も売り上げのことだけ、そして月刊カドカワを例に出す。「素人に書かせ作家仕立てに」している。何を根拠に物を言っているのか。これは単なる主観ではないでしょうか。私は多くのマンガを好きでしたしこんな人に代表してほしくない。要するに、大塚氏は文芸誌に対して、一つは文学なんてないんだ、誰が書いても同じ、くだらない、そして売れないからダメだ、売る気になればきっと売れる、どうせ内容なんか、意味なんかないんだ、社会性も公共性もないんだと言っているのです。そしてその大塚英志さんは、「内輪の雑誌」と書いた『群像』というところで、今連載をしておられます。書いているのは柳田国男についてのようですが、民俗学の好きな人に聞いたら、連載の途中だからあまり言いたくないとおっしゃったが、民俗学と文学をつなぐという意図の論文なので、民俗学のところには載りようもないだろうと、しかし、私つまり文学の側から言えば彼には文学を真面目な批判の対象とすらしていません。いつも金の話と中傷しかしてないのに。12年前に見た彼の記事自体を私は、そのガラスの割れるような音がする部屋で出版した『何もしてない』という小説の中で批判しました。12年前です。それから事あるごとに、こういう説に反抗し続けてきました。芥川賞を取った後もがんばってやった。その一方『文学界』で大塚英志さんは文学書の売り方だけを見て文学を論じるというような非文学的なことを続けたりしていました。判らないと言いながらまったく内容のない事や文学ではない話をし、捏造した例をあげて文学全体を無効にしたがる。しかし文芸誌には書きたがり、文学外の世界では立派に文学者を名乗り流通しているのです。そして彼はとうとう昨年『群像』の座談会でやってくれたのです。メンバーは大塚氏の他には、渡部直己氏と富岡幸一郎氏、後のふたりは中堅の文芸評論家です。みんな男性です。男、男、男の三人で何を言うかと思ったら、女性文学は、川上弘美しか言わない、でも川上弘美はサブカルかもね、と。渡部直巳さんというのも、別に文学代表ではありません。嫌味ばかり言う文芸時評をやっていた人ですが、金井美恵子さんのことは彼なりに評価して真面目に論じてはいました。何かというと金井美恵子、多和田葉子、時には笙野の名も上げるのです。しかしそのときには金井美恵子とも一言も言わない、多和田葉子とも言わない、笙野頼子とも言わない、そして大塚氏はいつものごとく全ての文学は、マンガの残り滓だと言って、そして『ジャンプ』『マガジン』の金であなた方は『群像』『すばる』を作っているんだろうと、まるで『ジャンプ』『マガジン』の編集長であるかのような態度で仰いました。でも今申し上げた他に、かれはその時点で角川でヒットを出している『サイコ』というマンガの原作者に過ぎず、ある大大大メジャーマンガ誌に問い合わせても「うちとは関係ない」と。

 別にマンガや活字のロリコン表現や空想があってはいけないとは言いません。それは子供の人権との関連で考えないとだめだが、しかし表現の自由はあるし、芸術とモラルは抵触することもある。『ロリータ』というのもあるし、『源氏物語』にも出てくるし。私は苦手ですけど。でもそういうマンガ代表でもジャンプの人でもない人がですね、『ジャンプ』『マガジン』を名乗りながら、『ジャンプ』『マガジン』の金で『群像』『すばる』を作ってるのに、お前たちは残り滓だ、といってる時にですねえ、その時に渡部直巳はいや、ぼくは文学なんか信じてないからってわざわざ言うんですよ。そのときには渡部直巳は文学の代表になっている。マンガと文学で大物ブリッコです。茶番もいいとこだ。

 そうです男がどうだろうとここには、がんばって戦ってる「女」がいる。それなのにどうして文学を信じてないと男が言ったら、それで文学がダメだということになるのか。しかも渡部氏の先のように安易な言葉が出たとたん、大塚氏がすごい得意になって、じゃあ渡部さん、あなたがやめて他の仕事につけばとまで言った。そこで私がなぜ怒ったかというと、常に渡部直巳のような人たちは文学はダメだ、くだらないと言ってるから、ダメなんだったら御本人から辞めたらって私は年来言い続けているんです(笑)。その私の台詞を取った上で、またそもそも日本一そのセリフを言う資格のない彼がそういうことを言って、誰もぼくに応えたことはなかったと言い張りました。しかし12年間です。実はこの大塚氏に関しては、津島佑子さん、これも女性です、朝日新聞で彼の言った事にちゃんとこたえています。また今回の大塚問題に関しては、金井美恵子さんが『一冊の本』という朝日のPR誌で、バカにしまくっています。みんな女の人だから黙殺される。売り上げ文学論を批判してるけど、批判してるのは全員女で、どうしてかって言うと女の人はみんな新しい文学をやってて自信があるから批判できるんです。また男でも言い返したり、でもそういう彼らはまさに少数派です。男でも年配の作家や文芸評論家で応援してくれる人はいて、年寄りと女子供は言うんですよね。だけど働き盛りのいばってていい目が見たい文壇の男っていうのは大半は無責任で、いばりくさってて文学はダメだ、って言うんですよ。

 これに対してもちろん私は批判をしたし、それからこの人は江藤淳さんの事を書いている。要するに江藤淳は戦後をふわふわ生きている女に甘い、どうしてかと言うと長野まゆみ氏らを悪く言ってないから甘いんだと言うわけですよ。で、大塚英志さんって言う人は長野まゆみさんに対してもものすごく酷くって、要するに彼女の存在をひとつの例、証拠として文学の独自性や意味を否定しに来る。そしてその時にまず、長野さんについていつわりを書きました。長野まゆみは最初からずっと小説家なのに、前にマンガ家だった人が小説書いて、マンガと文学は差がないからって言ってます。そのあとでまた江藤さんが長野さんをさほど否定しないから、江藤淳は痛ましいとか言って長野さんをくさした。だけど調べてみたら、江藤さんの選評を取り寄せたんですけど、それ自体も少しも大塚氏は読めてなくって、しかもその後で創作合評っていうのがあって、江藤氏は長野氏をそこで貶してました。つまり江藤淳が何か言ったって資料をちゃんと読み込めないで、そういう恥ずかしいことをやってます。なんだか重箱の隅をつつくような事だとお思いでしょうか。確かに文学の世界において、大塚某氏などという人は基本的に私たちにとってどうでもいい人です。それをまたいちいち文学の世界で怒ったりあげつらったりするのはおかしなことではあります。しかし社会的影響はあると思うのです。今の『群像』のI編集長と大塚番は言論統制までかけ、私をパージしてまで彼をかばっている。また、この会場についた途端に「群像はどうなってしまうんでしょう」という質問が寄せられたり、手紙がきているような現状で、私はこの件についてここで喋らずにはいられない。

 さて、江藤氏が長野氏について書いた選評ですが、確かに否定をしていないかもしれない。しかしそれは保留的です。また選評は合議です。それで江藤氏が女に甘いと取る事自体が既に江藤氏に対する言いがかりであり、無論、長野氏に対する言いがかりでもあります。また藤枝氏が群像新人賞の選考会で私を選んだ時男だと思って選考をしていたのと同じように、江藤氏はなぜ少年がアリスなのかとまさに男性の側からでしかない、つまり今時の女性の、自己の体や女性の立場についての、つまり自分自身に対する違和感を判らない状態で、まさに男が男の書いたものを読む時のように評価しているということです。その上でただ長野氏の知識や技術の出来を評価している。それ故、その後、『群像』の創作合評で江藤氏は長野氏の「雨更紗」を厳しくやっつけます。例えば鏡花ですら完璧ではないと難癖をつける氏は擬古文の仮構世界を志す長野氏に対し「武原はんさんの地唄舞いみたいに」というレベルの出来と技術を要求するのです。つまり男であろうが女であろうが戦後であろうが戦前であろうが、ともかくこの件についての江藤氏の要求はもう、ちゃんとやれちゃんと、完璧にやれという点であったととるしかない。しかも創作合評という以上は他のメンバーがいます。長野氏の世界に好意を寄せたのはやはり女性作家大庭みな子氏でした。その合評文つまりは座談会ですが、それを見ると江藤氏の場合、女というものはどうして、あるいは女というものはこういうものというようなフレーズを繰り出し、つまりはそういう形で対岸からでも大庭氏の意見を尊重している。ここから江藤氏が合議において女性の意見を入れる、というつまり男性の側から女性の意向を問うという型を持っている事が推定出来るのです。そして大庭氏が江藤氏の追悼文を寄せた時、マッチョだけど優しい配慮をする江藤淳氏の、深みある性格を惜しんでおられます。私は少しだが新人賞の選考委員としての経験があります。それ故に言うのですが、選考とはまさに合議です。議論であり、細部のあげつらいであり、4時間討論というケースもある。体力、気力も大きくものをいいます。女性の小説について女性作家が発言する時、江藤氏が相手の意見を入れていく可能性はあると思うのです。また長野氏の時は野間宏さんが欠席して書面選考である。これは説得のしようがないと思います。つまりその場にいないのだから。なおかつ野間氏は、いないからと言って無視出来るような人ではありません。その野間さんが長野氏を認めているのです。また河野氏という尊敬すべき女性の意見を大庭氏の時と同じに江藤氏は大事にするのではないでしょうか。当時の江藤氏はまだ40代で気鋭の評論家と言っても鶴の一声という感じの人ではない。と勝手に申しましたがこれもただの推定で言っていません。つまり、長野氏本人に江藤氏が長野氏をおしていたかどうか私は尋ねたのです。また当時の選考会に列席していた編集者やその頃から会社にいた人たちに場の雰囲気を確かめた上でものを言っています。時評と選評の性質は違う。大塚氏の描く江藤像がおかしいのには実は目的があっての事だと私は思います。つまり最初から無責任に何もかもを女の子のもの、女の子由来に仕立て上げるしか彼の文芸もどき論文には切り口がないという理由がある。しかもそれは『りぼん』のフロクに誑かされるような扱い易い女の子に仕立てたにせの、ロリコンマンガ的「女の子」です。彼の目的とは、つまり新しい文学の主体になる女性、本物の女に代わってものを言う事です。それもスポークスマン弁護人としてではなく、女性の声を収奪し、捏造し女性を黙らせるためのものです。女性を都合のいい幼女のような存在とみなし、あらゆる女性を幼女化し、黙らせたい、それ故彼は自分に都合のいい女性作家や黙らせたい女性作家には「女の子」といい逆らってくるものや気に入らないものを「おばさん」と言うのです。そして島本理生さんのような本物の少女が作品を書く、物を言っていると当然嫌がらせをしてくるのです。女の子というのはつまり彼にとっては無抵抗の、したいほうだいの利権のようなものでなくてはならないのです。彼は江藤氏をも利権化しようとして、江藤氏を少女に甘いおやじに仕立て上げた。

 江藤氏のことでひとつ覚えているのは、二度目にお目にかかったとき、文藝春秋の忘年会パーティで近い場所に居合わせたので私がお辞儀した時の事です。その時に「君がこれからこの世界を背負っていくんだ」と一瞬耳を疑うようなことをおっしゃいました。どれだけフェミニズムを標榜するような評論家でも日本の男は女の作家にまずそういう事は言わないはずです。だがあの偉い保守派評論家が、女のたかが異端作家にそういう事を言った。しかし氏は驚いた私の顔を見てすぐに「ある一面を背負うという事だよ」と訂正されました。つまり氏は対岸から、男が女に意見を聞くというスタンスは変えなかったが、またやはり男性の常で女性作家に不当な時も多かったのだが、それでも、マッチョではあっても時に女の人の声を聞き柔軟な態度で女の姿を見ることが出来た人であったのだと思いました。私に対してはだから、女の作家のひとりとして、男をサポートする女として意見を言え、男を諫めたり女の作家の選考をがんばれというちょっと差別的な意味だったのかなと今は思います。しかしそれでも女の姿を江藤氏は見ていた。ところが今は、女の声を聞かず、自分にとって与しやすい女の子、だけしか認めようとしない。そして男の特権に乗っかって茶番まがいのやり方までとって大人の女性を排斥黙殺して行く、その上で無責任にいちいち反権力ぶる、今ではそういう無節操なブリッコ男たちが現れている。そもそも女の子よばわり自体が大人の女性たちにとってはテクハラになる場合があるのですから、その彼らは文学が判らないと称しながら売り上げ文学論を使って文学に介入して来ます。これこそが今の世相の典型だと私は思うのです。私はさっきセクトや共産党にはくみしないけれど左系っぽくしていたいと言った位ですから江藤氏には叱られるようなところの方が多かったのです。『二百回忌』を氏は肯定してくれましたが、しかしそのフェミニズム部分には厳しく、方言等の出来を評価してくださったという事です。また石原慎太郎氏との対談でも私がフェミニズムの闘士に見えるが実は違う面があるというような言い方だったと思いますが、フェミニズムと違う部分で評価してくださった。また江藤氏は長野氏の『雨更紗』の出来には厳しくとも少年愛の描写には色気があると評しています。そして残念ながら私の尊敬する、ある優れた女性作家については色気がないニイチテンサクノゴと評価しその革命性や清涼感を切り捨ててしまいます。私は別に江藤研究者でもないので江藤氏の事で物を言っていいかどうかという遠慮はあります。でも昔江藤、江藤と言っていた人達は江藤氏が亡くなられたらどんなにひどい事を言われても怒らないのでしょうか。私はお目にかかったのもたった2回でその時もコッカースパニエルを飼ってらっしゃるというのでそのお話を伺っただけです。江藤さんが亡くなられたのは脳梗塞の後で、死の原因を勝手に評論で言い立てる人々は脳梗塞後、病のために鬱になるという点をどのように考慮したのだろうかと疑わしく思います。脳梗塞の後の人は自殺の危険性があるので注意しなければならないと医者は言うでしょう。また坂本忠雄さんは江藤氏が若い時分から常に死と生の両方について意識していたと言っていたように記憶しているのですが。どんな人にでも相反する面はあるのだしとりわけ江藤さんは多面的で、いい意味で一筋縄では行かない人だったのではないでしょうか。ところが大塚氏が江藤氏にしたことはいかにもマスコミ的で、つまり無知を装いながら判りやすいストーリーを作り上げたのです。そして江藤氏を自分のフィールドにひっぱってくるために若い女性作家という文壇的には最も声を上げにくい守られにくい人々に関して捏造を行った。無論江藤氏はもう亡くなっている。その江藤氏がお元気だった頃編集者に対し、大塚氏に「どんどん書かせなさい」と言ったという後書きを付けて『江藤淳と少女フェミニズム的戦後――サブカルチャー文学論序章』という本を出した。そこに私が感じたのは故人をも含め、声を上げられないものに対する現実感覚を喪失した冒涜性でした。私はマッチョと戦いたい。しかし女の声を収奪する人間がマッチョにとってかわるのも嫌なのです。マッチョだが時には女の声を聞き姿を見た江藤氏が少女フェミニズムなどとヌイグルミおやじに仕立て上げられ大塚氏から自死の理由まで安易 に決められるのは変だと思いました。

 ええと今何時かなあ。あ、まだ時間はありますね。じゃあ例の件(原文傍点)をちょっと。つまり12年私が批判してきたのに、女の作家がずっと批判してきたのに、それをどう思ってるんだと、そしてここがポイントです。意味ないくだらん売れないから駄目だという文芸誌に大塚さんそんな売れっ子のあなたがなぜ書きたがるんですか、といった。そうしたら今度は彼は反論出来ないもんだから反論を書くスペースを貰っておきながらそこにまた金の話を書いた。講談社の給料計算を載せましたがこの数字は全部茶番です。それから部数も載せました。この部数も茶番、フィクションです。というより赤字予定部門の雑誌単体を見て、一冊の正味をあげつらう事自体が大チョンボです。その後で彼はまた『海燕』という雑誌の読者数で嘘を書いた。しかし実は『海燕』というこの雑誌の実数は私が、実は書店購読者の端くれまで握ってます(笑)。ともかく彼はインチキな給料計算をして、そしてもう『群像』は分社化と言うんですけど、違う会社にして、もう文芸誌は要らない、本はフリーマーケットで売って、小説はホームページでも書けると言いました。それで私は、これでもう大塚さんは文芸誌から撤退するんだと思って、じゃああなたが文芸誌に書くのをやめるのね、と『新潮』のエッセイで書いた。というのは、どういうわけか『群像』でその反論を載せてくれなかったからです。そうしたらその2ヵ月後に、大塚さんは『群像』で連載を始めました。意味ないはずの『群像』で、座談会の食事代まであげつらっておきながら、連載をしてるんです。しかも講談社の社員の給料は高いと言いながら、その高い給料で拵えてる文化事業の『群像』に資格もないのに書いている。つまり、原稿料に根拠はない、座談会のお金にも根拠はない、編集者の給料にも根拠がない、自分は文学が何か判らない、と言いながら書いてるんですから。これを読んで変だと思い私は再批判させろと言って、テープを回して編集長と会見しましたが、この方がどういう方かというと、以前は『エクスタス』という雑誌で、これは『群像』の別冊なんですけど、最初はカルチャーマガジンでしたが、どういうわけか途中から急に女の子マガジンになりました。ただし、女の子マガジンということは、新潮社でもそうですけど、バーバリーとかラルフローレンとか、そういう少女もののブランド服の広告を入れたり、あるいは何か商品を紹介する、ヘヤバンドがいくらだとかこんな口紅が流行ってるだとか、そういうものを載せないと商売にはならないんです。しかしろくに広告の載ってない女の子マガジンで、何かというと、やたら女の子が出てくるだけなんです。女の子と言っても、セックスの対象になるような女の子ではなくて、小さい女の子です。例えば白いソックスはいて幼女っぽい格好してます。そのIという方が自分で企画した特集は、少女に読ませる雑誌なんですけど、幼稚園特集というものです。どういう特集かというと、幼稚園児よりも大きい、時には小学生ぐらいの子に幼稚園風の服を着せて、幼稚園児風の格好をさせて、それでいろんな変わったソックスを履かせて写真を撮ったりする。で、そこにある作家の方の文章を載せていて、Iさんの似顔絵も載っていてその文を読むと、要はIさんが幼稚園特集のモデルの今から着用する白ソックスを自分で履こうとしていると。要するにモデルの着用する衣装を追求しているわけですよ。

 で、そういう人と会って、別にこれはIさんがロリコンという事じゃなくて、要するに少女、女性文化への誤解という意味です。要するに少女の幻想だけを使えば、なんでも、ものすごく売れるわけですよ。売れる少女の白ソックスを検分したりしているのがまさに彼のおやじ的仕事熱心です。女性の文学は新しいでも男には判らない。幻想のカマトト少女だけが男の利権です。おっさんだらけでおっさん好みな少女の本を作って何が新しい女性か。しかし会社はこれだって文化事業だと思って広告も入らなくても真面目に出させているのではないんですか。そういう人と会見したら、「金の話は大切です、いつでも考えてる」とおっしゃいました。「じゃああんたたちの給料は高いって大塚氏が言った事をどう考えてるんだ、本当に金の話が大切だったら、自分たちの給料を下げるのか」と聞いたら、「給料は労働組合が決めるのです」と言いました。

 しかしそういう収入のことは別にいいんです。つまり文化事業をしてる会社に、私ごときが口を出して、編集者の給料がどうこうと言いたい訳じゃありません。本来編集者は同志なんです。だけれどもお金の話は大切だといって、労働組合が給料を決めると言って、じゃあどうしてあんなものを載せたかと言ったら、俺たちは別に金のことなんか言ってないと開き直りました。その矛盾して感情的になってるところが全部テープに残ってます。そしてやりとりがあってあんたなんか選考委員辞めたって誰も心配しない気にしないという意味のことも彼は言いました。私は『群像』で選考委員をやってるんですけど、選考委員を降りるという犠牲をはらってでも批判をさせてくれと頼みましたから。文壇の礼法にのっとったつもりです。吉本隆明氏がある批評家を批判した時より、ずっとていねいな方法をとった。しかし彼にとっては私はけむたい存在です。結局最後まで選考委員は勤めましたが、次の年からは新メンバーになった。『群像』ではもう書かせないけれど、最後にひとつだけ好きなように大塚批判を書かせるからI氏のいる間は出てってもらいたいと。まあ追放です。でもその条件を私は呑みました。追放されても書きたいことは二つありました。一つは、要するに出版社は利益を得るためではなく、志を売るんだと、文化を売って出版社は違うんだということを示すのだ、そういう志の上に赤字価格、完売赤字に『群像』はなってるそのことを書きたい、当然これを出せば大塚氏がお金の事で大チョンボを書いたのがばれてしまいます。「赤字予定」の「他で採算をとる」部門を彼は「単体」で売れない、「赤字」だと叩いたのですよ。しかもこの赤字予定部門、大塚さんはそれを「不良債権」と呼ぶけれど、不良債権というのはそもそもお金を貸して貸したお金が返ってこない、あるいは品物を売ってその代金が貰えないということを言うのであって、レトリックとして完全に滑ってるわけです。赤字予定部門だろうが、文化事業部門だろうが、不採算部門だろうが、経営の判断で引き受けてやっている、そういうことです。一流企業しか出来ない文化投資を意味ないというのは変だと。だって嫌なら本人が文芸誌のあるところで仕事しなきゃいいのでしょ、売れっ子だというし。そして二つ目、そこまで言う人間に『群像』で藤枝静男の、木下順二の、埴谷の『群像』で連載する資格があるのか、という事でした。しかしその約束は破られた。結局そういうことは書けないようなことになりました。でどこへ書いたかというと『新潮45』です。『新潮45』の5月号に載りましたし、それから『河南文藝』というところでも文学編の創刊号に書きましたし、最近『早稲田文学』の11月号にも書いています。

 そして私は最後の批判を『群像』に証人を立てた上で渡しました。骨抜きの原稿。それは読者へのお別れの挨拶です。『群像』とはお別れですけど、他誌で仕事してますってことを書いて。それで、それを見たときに仰天しましたよ。同月掲載で、大塚氏の反論が載ってたんです。つまり私の書いたものをゲラの段階で彼は知っていたわけです。これはジャーナリズムの関係の人だったら判るんですけど、こんな事はありえない事です。事前検閲というやつだ。表現の自由にもとる事です。論争の場合は特にそうで、校了が済んでから反論が「出ます」と言われるだけで、絶対に一部でも内容は知らせてはいけない。どうしてかって言うと、それはジャンケンの後出しとか、将棋盤をひっくり返すのと同じ行為だからです。「見てない」ともし言ってもじゃあなんで同月だ。編集者しか知りえない事が彼の文にはあった。終刊号じゃないのです。しかも『群像』で。

 そういうことがしてあって、彼は僕は「文学」を引き受けますと書いていました。「まんが」を引き受けてきたから、ついでに引き受けてあげますから論争しましょうと言って、笙野が言ってはいけないことを全部指定した上で、質問を箇条書きにして出しなさいと書いてありました。こんな失礼な話はありません。箇条書きにしないと分からないと書いてあるんですけど、それ以前は些細なことですので無視しますと書いてた問題ですよ。それがどうしてこんなことになってるんでしょうか。人のゲラを知ってて、しかも彼はそれで「リセットが必要です」と。

 誰のためのリセットか。リセットですんだらモラルはいらない。だったら批判が出来るのか、とその時に渡した原稿は当然ボツにされ、あげくひどい制限付きで、大塚氏と対談してくれという依頼があっただけで、連絡は途絶えてます。そうです。茶番と言論統制の予想される大塚ルールでなされる対談など断りました。

 そういうふうにしてだんだん、私はいないことになって、笙野頼子がいないので安心したのか、『群像』に笠井潔氏や山形氏などいろんな方が載るようになって、今のところ文学はダメだダメだと言っている状態になってます。大塚氏は結局『新潮45』が出てからまずいと思ったのか連載を3ヶ月休みました。しかしその後また茶番をやって戻って来て、私の批判が出たあたりで「嫌味言ったオレが悪かった」、「あやまらないけど」等書くものの今も言論統制にぬくぬくと守られて彼にとっては意味ないはずの『群像』で平気で連載を続けています。私はパージされたまま批判を続けていてまとめの本は来年末に出す予定です。大塚氏の「架空請求」を世に訴えます。

 そういうような状況に『群像』がなっていて。あっ、でもさすがにこれだけ喋ると時間が無くなりますね、ごめんなさい。思ったことの三分の一も喋れなかったんですけど、あと外国の文学事情についてですね、『エクソフォニー』という多和田葉子さんの本があって、面白いので読んでください。オーストリアでは純文学叩き、売れないからダメ、専門的だからダメ、というのはネオナチとか、右翼とか、そういう人たちのお仕事だそうです。そういうことですので。そしてこれでも判らなかったり変だと思う方は必ず早稲田文学11月号をお読みください。なんか、ゴメンナサイね、皆さんお腹すいてるのに(笑)。じゃあ、途中ですけどこれで。  






back