|
|
|
|
|
|
小谷真理さんがこのたびメディアワークス編集の『オルタカルチャー』で山形浩生氏の手になる著しく不穏当な文章によって悪質な誹謗・中傷を受けられたことは、きわめて遺憾なことです。 私は長年女性学ならびにアメリカ文学の研究に従事してきている関係で、小谷真理さんおよびそのご夫君の巽孝之さんとはそれぞれ別個の文脈で触れ合う機会をもち、以後親交を得てまいりました。すなわち、小谷さんとは日本女性学会をはじめとするさまざまなフェミニズム関連の会合で、巽さんとはアメリカ文学会や英文学会等の会合で、しばしば研究活動をともにしつつそれぞれの人柄と仕事ぶりに触れ、多大なる刺激を得てきたというわけです。 私にとりまして、お二人がきわめて貴重な存在であるのはまず、それぞれの仕事内容に由来することはいうまでもありませんが、加えて、お二人が互いに切磋琢磨しつつ、それぞれのユニークな個性および才能を育ててきた希なカップルであるという認識からもきています。そうした状況が可能となるには、お二人それぞれが並々ならぬ努力と意志力を働かせる必要があったことは明白です。とりわけ、結婚後妻となった女性はすべからく夫の陰でその社会的活動の支えとなるべしといった差別的な女性観が未だ根強いこの国にあって、独立した評論家としての地位を築かれた小谷さんの今日までのご努力・ご苦労には並々ならぬものがあったものと承知しております。 にもかかわらず、小谷さんがあたかも巽さんと同一人物である、言い換えれば、巽さんの援助ではじめて執筆を行いえたかのような山形氏の中傷は、単に誤った情報を広めるばかりでなく、これまでの小谷さんの努力と功績を無にする由々しき発言といわねばなりません。さらに小谷さんがあたかも「男」であるかのような言及がなされているのは、一個人・一女性としての小谷さんを著しく貶め傷つけるばかりでなく、これまで一貫して女性としての意識を大事にしつつ執筆活動をしてこられた評論家としての小谷さんの根幹の部分をおびやかす暴言にほかなりません。 このような観点から、以下においては、長年フェミニズム的見地から文学研究・批評活動をしてまいりました私自身の知見を活かしつつ、次のような順序で今回の件に関する私の意見を述べさせていただきたく存じます。 1)まず小谷さんの主要著作を辿ることで、その内容が女性学的見地から独自性に恵まれたものであること、それを夫である巽さんの仕事と同一のものとする山形氏の言辞が彼自身の見識の不足を示すものであることを明らかにする。 まず第一点に関してですが、そもそも小谷さんの評論が本格的に私の注意を引きつけるようになったのは、今から4年前の1994年に小谷さん初の著書として『女性状無意識 テクノガイネーシス――女性SF論序説』が勁草書房から出された時点からです。わが国にはきわめて珍しい本格的女性SF論であるこの書は、それまでSFというジャンルには疎かった私のような読者にとっても大変興味深く刺激的な読み物となりました。その理由はひとえに、同書が斬新なSF研究書であることに加えて、明白に女性の視点に基づくフェミニズム文学批評の書でもあったからです。 周知のように、従来男性中心の視点から行われてきた文学批評の分野に女性の視点を導入することを提唱するフェミニズム文学批評は、70年代に最盛期を迎えた米国フェミニズム運動およびそこから派生した女性学の必然的な帰結でした。最初は女性蔑視的な男性作家の攻撃のみに終始していたこの動きは、80年代に入ると、女性作家に焦点をあて、その共通の関心事や感受性を探ることで、失われた女性間の繋がりや文化を浮上させるいわゆるガイノクリティシズムの段階に入ります。さまざまな現代女性SF作品のなかに、出産、母娘関係といった女性に固有の普遍的テーマを探る小谷さんの『女性状無意識』がこのガイノクリティシズムの方法論を取り入れたものであることは明らかです。けれども小谷さんの新しさは、女性全体を余りにも画一的・均質的にとらえがちなガイノクリティシズムの限界を乗り越えている点です。すなわち『女性状無意識』には、女性間の人種的違いを強調するブラック・フェミニズムや、社会の周縁的存在としての女性、すなわちエイリアンとしての女性存在の在り方に、文明/自然、機械/人間、さらには男/女の性差といった二項対立的概念を乗り越えうる契機を見いだすいわゆるサイボーグ・フェミニズムの視点などをも取り入れているのです。現在わが国のフェミニズム批評界では、社会的・文化的に構築されたものとしての男/女の性差(ジェンダー)の形成過程を個々の文学テクスト内に分析し、それを解体に向かわせようとするいわゆるジェンダー批評が盛んとなっていますが、そうした方法をすでに1994年の時点で採用し、しかもアメリカのSF作品のみならず日本の大衆的女性ジャンルである「やおい」文学にまで応用している点でこの本の先見の明は今読み返すと一層高く評価すべきものに思われます。 小谷さんのそうした女性学的アプローチの独自性が日本の女性学界全体からも幅広く認知されたことは、その後小谷さんが、例えば1997年度の日本女性学会での「女性と生殖――その欲望・技術・政治」と題する大会シンポジウムに招かれるなど、さまざまな女性学関連の会合に次々と参加を依頼されていることからも容易に窺い知れます。私自身も早稲田大学のオープン・カレッジで女性学講座を企画したさい、小谷さんに「女性と生殖」に関する講義をしていただき、大変好評を得ました。 こうして、小谷さんはSF評論家のみならず日本のフェミニズム研究の最前線で発言する女性学研究者としての顔をもつにいたったわけですが、そうした動きは次の著書『聖母エヴァンゲリオン』に至るとさらに増幅されています。そこでは人気アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』にあらゆる悪しき二項対立概念を切り崩す可能性を秘める、抑圧され排除されたものとしての女性性(これを小谷さんはアメリカの女性学者アリス・ジャーディンの命名にしたがってガイネーシスと呼んでいます)の発露を認め、各エピソード毎にそれを詳細に分析してみせています。またこの本では多くの頁にフェミニズム理論や女性学関連の専門用語の解説や女性学関係の書からの引用を多数埋め込み、また一章を英文にするといった実験的工夫が施されています。さながらハイパーテクストの様相を呈するこの複雑な形式は、女性を性差だけでなく、人種、民族、階級、性的指向など、多様な差異が複雑に交差する境界的な場として読みとく今日のフェミニズム批評の新しい感受性を生々しく伝えています。これとよく似た形式は一昨年私自身が翻訳し、みすず書房より刊行した著名なベトナム系アメリカ人批評家トリン・ミンハによる『月が赤く満ちる時』においても顕著であり、そうしたハイブリッドな形式こそ境界横断を旨とする今日のポストモダン的世界における女性の状況を語るのにふさわしいものであることをトリン自らも強調しています。山形氏がこの『聖母エヴァンゲリオン』を「男」の書いたような本として揶揄しているのをみる時、仮に彼が女性学あるいはフェミニズム批評の流れを今少し掴んでいたなら、そうした発言を慎んだのではなかったかと感じるのはひとり私のみではないでしょう。けれどもそもそもフェミニズムへの理解を今日の山形氏に望むこと自体、無理な話とみるべきかもしれません。というのも、山形氏の小谷さんへの揶揄中傷には根本的にフェミニズム思想とは相容れない根深い女性蔑視の考えが見え隠れするからです。 そこで話題を先にあげた第二番目の点に移すことにしますと、まず強調したいのは、女性の書きものを夫あるいは恋人といった男性パートナーの手になるものであるとか、書き手が実際には「男」であるとかいったデマを広めるやり方自体、過去に連綿とつづけられてきた女性蔑視的男性評者による女性文筆家攻撃のきわめて初歩的・常套的手段であったということです。ただし、そうした攻撃方法を単に陳腐なものとして笑い飛ばしえないのは、それが女性文筆家を沈黙に向かわせるためのきわめて有効な暴力の装置として働いてきたことによります。 歴史的にみますと、元来世界のほとんどどの地域においても、女性は長らくものを書くという創造的領域から排除されていました。むろん平安期の日本のようにすぐれた女性作家が多数輩出した時期もありましたが、その後明治期にいたるまで長い沈黙の期間があったことを考えますと、それがきわめて例外的であったことも明らかとなります。欧米でも状況は似たり寄ったりで、その第一の要因として、ヴァージニア・ウルフは、概して女性には執筆に必要な経済能力――「自分だけの部屋」――が許されなかった点をあげています。他方ボーヴォワールは、男性のみが世界を意味付ける者としての特権を有する一方で、女性はたんに意味付けられる者、すなわち「他者」の位置に固定されがちであった点をあげています。いずれにしろ、そうした見方の背後には、論理性・客観性に秀でる男性は表舞台で活動し、非論理的で主観的な女性は陰で男性を支えるべしといった、男女の役割に関するステレオタイプ化された考えがあることは確かでしょう。 けれども、そうした制限にもかかわらず、近代以降世界各国で数多くの女性達が執筆活動を行ってきたことも事実です。ある者は家族を養うため、ある者は表現への野心を抑えきれずにといった具合に、動機はさまざまですが、確実に執筆をしつづけてきたのです。そうした女性作家たちがひとたび成功をおさめると、しばしば直面させられたのが男性評者からのさまざまな罵詈雑言です。例えばハリエット・ビーチャー・ストウなどの19世紀米国でベストセラー作家となった人気女性作家たちはホーソーンから「忌ま忌ましいへぼもの書きの女たちめ!」と悪態をつかれましたし、また今世紀に入ってもノーマン・メイラーは同時代の女性作家たちを貶めるべく、「作家たるもの、balls(男気、または男性性器の意)をもたにゃ!」などと卑わいな言葉を投げ付けています。 とはいえ、いかに成功をおさめようとも、当の女性作家の作品自体が繊細さ・優美さ・直感性といったいわゆる女らしさの美徳の則を越えていない限り、さほど心配はいりません。問題は、例えば、知的で論理的、大胆で冒険的、あるいは、幅広く人間ないし社会の真実への洞察を備えるといった、女らしさの範疇を大きく踏み越える特徴を示す作品を志向した場合です。そうした場合の女性作家たちは明らかに男性のみの領域に侵入し、男性のみの特権を奪う、危険で尊大な存在として男性たちの怒りや憎しみの対象となるのです。ジョルジュ・サンドやジョージ・エリオット等、数多くの著名な女性作家たちが男性名を使ってスケールの大きい作品を執筆したのは明らかにそうした状況への恐れがあったからといえます。 実際、過去の多くの女性作家たちは不安や恐れのなかで執筆してきました。このことは、著名なフェミニスト作家であるティリー・オルセンが男性優位体制にあって過去の多くの女性作家たちがいかに不安や恐れのため一時ないし永久的に沈黙に陥らされたかを記す『沈黙』のなかで跡付けている通りです。いずれにしろ、常に脆い心理状態にありがちな女性作家を傷つけ意気消沈させることはいとも簡単なことであったともいえましょう。事実、著名なSF作家のジョアンナ・ラスは『女性作家を抑圧するための方法』という皮肉な題の書でこれまで男性が女性作家たちを攻撃し傷つけるのにどのような方法を用いて成功したかを具体的に列挙しています。 ラスもオルセンも述べていることですが、そもそも女性作家たちを攻撃するのに最もありふれた方法とは、その作品を「男の模倣」であるとか、実際には「男の助けで書かれた」ものであるとか公言するというやり方です。それがきわめて有効となるのは、一つには、女性作家たちは一般的にいって野心的であればあるほど、伝統的に権威者としての地位を保持している男性たちの知識の遺産をわがものとし、同時にそれに抵抗しながら自身の独自性を打ち建てるといった困難な営みに挑戦しなければならなかったからです。そこが男性評者たちのつけいるところとなります。というのも、男性的な知識や伝統をわがものにするということは、そのまま、当の女性作家たちが「男を模倣している」とか「男の助けで書いている」とかの中傷を投げられる要因ともなるからです。そうした中傷がこれまでいかに頻繁に安易に行なわれてきたかは、例えば今日ではその独自性について誰一人疑うことのないシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』やエリザベス・バレット・ブラウニングの『オーロラ・リー』などの傑作すらかつては兄弟ないし夫にあたる男性が書いたと言われたことからも明らかでしょう。これと似た故なき中傷はわが国でも例えば倉橋由美子が出世作『パルタイ』を書いた時に受けていたとも聞いています。そのように作家としての自立性、さらには、作品がもつ独自性をも奪ってしまうといった重大な実害を及ぼす悪質な誹謗中傷を許すべきでないことは誰の目にも明らかですが、今一つ憂慮すべき点は、そうした中傷が再び女性作家たちを知性や学識の豊かさといった、伝統的に男性的とされていた領域から遠ざけ、やはり女性はすべからく私的で狭い範囲を扱う女らしい作品に戻るべきだといったメッセージを流布させることにも連なるということです。 同じような心配は、女性作家を攻撃するもう一つのよくある方法、つまり、女性作家を「男」呼ばわりする方法に関してもいえます。もともと女性作家を「男」のように書くと評することはむしろ肯定的な意味合で行なわれることが多かったともいわれています。ただしこれとても、男性が優れていて、女性は劣っているといった、従来からの差別的なジェンダー観に基づいていることはいうまでもありません。けれどもいずれにしろ女性でありながら「男」であるといわれることは、それ自体、自分が逸脱した不自然な存在だといわれたも同然で、当然歓迎すべきものではありえないでしょう。ましてや明白に揶揄としてそれを投げ付けられた場合、当の女性作家がいかに傷つけられるものかは容易に想像できることです。フェミニズム批評の古典たる『屋根裏の狂女』の著者ギルバートとグーバーは、過去の女性作家の多くが女性は「家の中の天使」であるべしという世間からの要請に反してものを書く自分たちを逸脱した不自然な存在――つまり、妖怪ないし怪物的存在――として意識し、そこからくる恐怖や不安感を作中狂女としての女性人物に投影する傾向にあったことを明らかにしています。同種の恐れや不安がその後も長く女性作家たちに生きつづけたことは、60年代米国の女性詩人シルヴィア・プラスやアン・セクストン等もまたしばしば自作の中で自らの分身的人物を魔女、狂女として提示していることからも明らかです。こうして女性の著作者を「男」呼ばわりして攪乱させるやり方は、まさに今述べたような理由から、女性の執筆者が常々抱いている恐れや不安を逆手にとったきわめて卑劣な嫌がらせの方法とみられるのです。 以上のことから、山形氏が小谷さんに行なった二度の揶揄中傷がそのまま過去からつづけられてきた女性蔑視的な女性作家への攻撃法を忠実に受け継いだものであることは明らかでしょう。けれども、たとえそうしたやり方が陳腐でありふれたものだからといって、その実害や危険性が少なくなるわけではないことも念頭に置くべきでしょう。山形氏のように同じ攻撃法をいまだに実行する人物が存在すること自体、今日でもそうしたやり方が強い効力をもちえることが意識されているともいえるのです。 ところで、冒頭にも触れましたように、私が小谷さんと巽さんのお二人を貴重なカップルと感じる所以は、他の多くの日本の夫婦のように、家での妻の(物理的・情緒的)労働を糧に夫が公的な場で活躍するのを当然視する一般的なパターンにとらわれていないことによります。山形氏自身どれだけ意識的かは定かではありませんが、彼の今回の発言にはやはり、妻は夫の支えであればよいといった偏見があることは確かと思われます。実際、もともとともにクリエイター仲間であった男女のカップルが結婚するや否や、夫のみが創造的行為をつづけ、妻は世話係りにまわるといった旧来のパターンにはまることが多々ありつづけてきたことは、光太郎・智恵子の例などあげずとも明らかでしょう。高橋たか子のように夫であった男性が亡くなってはじめて、生き生きと執筆活動を始めえた女性作家の例も枚挙に暇がありません。その筆力からして彼女たちがさまざまな形で夫の執筆活動の支えとなっていたことは創造にかたくありません。むろん執筆を肩代わりしたなどというつもりはありませんが、少なくとも校正や読み直しの点で貢献したことは十分ありうることでしょう。にもかかわらずそうした援助は全く自然なこととして一切問題にもされません。なぜなら、どんな形であれ、妻が夫を世に出すべく援助するのは、内助の功として高められこそすれ、問題にはされないからです。そもそも夫が妻の援助で書いたなどという非難がたえて出てこず、代わりに妻が夫の援助で書いたとの非難がたびたびみられるのは、やはり、そうした男女ないし夫婦の役割分担に対する固定観念が強いことの証でしょう。 山形氏は小谷さんを揶揄した当の文のなかでフェミニズム批評自体を揶揄する言葉を吐いています。けれども山形氏はやはりフェミニズム批評をもう一度見直すよう努めるべきでしょう。というのも、山形氏は言葉のもつ力を余りにも軽視していると思われるからです。少しでもまじめにフェミニズム批評の書と取り組めば、彼は自分の言葉が単に「レトリック」として片づけられるべきでないものであることに気付くはずです。過去に男性評者たちが女性の書き手に対して発してきた心ない言葉の数々がどれだけ彼女たちを傷つけ沈黙にすら向かわせえたかを彼に知らしめるはずなのです。 先にもあげた詩人シルヴィア・プラスは、小谷さんと同様に、テッド・ヒューズという同業者仲間の著名な詩人と結婚しつつ、執筆をつづけていました。直接的にはヒューズの裏切りが引き金となってプラスは自殺に至るのですが、それよりはるか以前から世間の女らしさの規範に反してものを書くことから激しい不安にかられていたことは、彼女が残した数々の詩から明らかです。プラスが自殺したのは1963年、つまりベティ・フリーダンが『女らしさの神話』を世に問うことでフェミニズム運動を発生させる直前のことでした。仮にプラスがその運動の中から派生したフェミニズム批評を読むことができたら、もしかしたら他の女性作家の同様の悩みを示す言葉の数々にも触れることができ、結果として孤独に苛まれずにすみ、自殺にも向かわなくてすんだかもしれません。何故なら言葉は人を殺すほど恐ろしい力をもつとともに、人を生かしつづける強い力をももつからです。 米国の指導的フェミニズム批評家として知られるエレイン・ショウォルターは、男性作家が作中示す偏見に満ちた女性の書き方を「textual harrassment 文章上の性的嫌がらせ」と呼びましたが、今回の山形氏の誹謗中傷もまさに「文章上の性的嫌がらせ」と呼ぶのにふさわしいものです。そうした「文章上の性的嫌がらせ」がしばしば一人の女性作家を追い込み、沈黙に向かわせる力をももちえることを山形氏はもって銘すべきでしょう。同時に、フェミニズム批評とは、たとえ単なる「批評」であっても、現実を変える力をももちえることも彼は銘すべきでしょう。 今回小谷さんが被られた精神的打撃には、心からの同情を禁じえません。同時にそれを乗り越えるべくあえて訴訟を起こされた小谷さんの勇気には拍手を送りたく存じます。何故なら小谷さんの闘いは彼女一人のものではないからです。未だにあからさまな女性蔑視的言辞が発せつづけられているこの国で今後女性たちが恐れずに創造的営みに励めるための闘いの意味ももつからです。 今回の件が単に「レトリック」として片付けられることで、同じことが再び繰り返されるといったことが断じて起きないことを心より念じつつ、この意見書を閉じたく存じます。 平成10(1998)年7月14日 早稲田大学教授 お茶の水女子大学客員教授 小林富久子
|