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私は現在、爽風会佐々木病院に精神科医として勤務しております。また、ときに依頼原稿を一般誌などに書くことがあり、著作としては「文脈病 − ラカン/ベイトソン/マトゥラーナ − 」(青土社)、「社会的ひきこもり 終わらない思春期」(PHP研究所)などがあります。ただし文筆業のほうは副業的なものであり、私の本業はあくまでも、精神科を専門とする臨床医ということになります。 さてこのたびは、作家・批評家の小谷真理氏からの依頼を受けて、本件についての私の関わり、その中で知り得たいくつかの事実、及びそれらについての所感を陳述書として記すことにいたしました。 まず私と小谷真理氏との関わりから述べておきます。小谷さんの名前は、最初の著作『女性状無意識』を発表し、日本SF大賞を受賞された当時から存じておりました。その後青土社の〈imago〉など、同じ雑誌で書く機会なども多くなり、昨年十一月には、日本ジャーナリスト専門学院の文化祭シンポジウムで、パネラーとして同席いたしました。また本年二月には、新宿のライブハウス「ロフトプラスワン」にて、トークライブのゲストとして同席し、そのさい夫君の巽孝之氏にもご紹介いただきました。現在は文筆業の後輩として、日頃からメーリングリストなどを通じて、情報や意見を交換しあう関係です。 私は問題の書籍『オルタカルチャー』を発売直後に購入しています。私は毎週火曜日、行徳駅から地下鉄東西線に乗り飯田橋駅で下車し、法政大学の隣にある政文堂ビル内の北の丸クリニックに通勤しています。当クリニックで私は、火曜日の午前十時から一時間の昼休みをはさんで午後六時まで、外来診療を担当しています。平成九年十月二十一日の午後一時頃、昼休みになってすぐ、私は同じビルの一階にある書店「政文堂」に立ち寄りました。そこで平積みになっている『オルタカルチャー』が眼にとまり、手にとって内容を拾い読みしました。 ちょっと読んだ感じでは、サブカルチャーのレファレンスブックという、ありそうで無かった着眼点や、項目選択のユニークさなどが印象的でした。しかしそれだけならば、私は何項目か眼を通して、本を棚に戻していたでしょう。私がこの本を購入することに決めたのは、まさに問題となった項目、[こ-008]「小谷真理、およびそれを泡沫とする........」の文章を読んだからなのです。このことは特筆しておかねばなりません。この項目が虚偽であるなら、私もまた、無用の本を騙されて買ってしまったという意味で、ささやかながら「被害者」であるからです。 当時私は小谷さんの名前はよく知っており、著作や論文も読んではいたのですが、面識はありませんでした。ですからその時点で私にとっては、小谷さんはまだ名前だけの存在だったのです。また巽さんについても、著書「サイバーパンク・アメリカ」などを通じてお名前は知っていましたが、もちろん面識はありませんでした。お二人がご夫婦であるということも、「そういえばそうだったかな」という程度の知識しかありませんでした。その程度の認識しかない私にとって、この項目に書かれていたことは、まさに驚くべきスキャンダル以外のなにものでもなかったのです。 私はそこに書かれていたことをすっかり信じ込んでしまいました。文章の性質上、これはやむを得ないことだったと思います。小谷氏と巽氏、あるいは山形氏らの個人的関わりを間近で知りうるような立場の人間でもない限り、そうとしか読みようのない文章だったからです。 繰り返し強調しておきますが、私がこの本を買ったのは、まさにこの文章を暴露文として読んだからです。本の体裁がレファレンスブックであり、またインターネットとリンクした、一種のハイパーテクストを意図していることは明かでした。私は本書に関わったライターの多くが、ハッカー的な素養やオタク的情報を大量に持っている人間であろうという印象を持ちました。要するにこの本は、ハッカーとしてはそれなりに優秀なライターが関わった、さまざまな裏情報の宝庫なのではないか。実は私はそのような下世話な本も、けっして嫌いではありません。ともかく「小谷真理、および......」の記述を読んでそのように感じた私は、さっそく本書を購入したのですが、持ち帰ってゆっくり読んでみると、畏友・春日武彦氏の書いたいくつかの項目が面白かったほかは、さして見るべきものもなかったというのが正直なところです。 この項目の著者である被告・山形浩生氏については、私はバロウズの翻訳家として名前だけは知っていました。邦訳書の「あとがき」などから推測して、サブカルチャーにも関心のある、若い書き手の一人という認識くらいはあったかもしれません。山形氏と小谷氏のつながりについては全く無知でしたが、守備範囲が重なっていそうなので、個人的な接点があったと聞かされても、さほど意外には思わなかったでしょう。山形氏がその批評というか、悪罵の過激さによって知られるライターであるという印象は、この時点ではありませんでした。ですから私は、この項目の書き手が山形氏であると知った後も、それを業界内の興味深い暴露話として、やはり真に受けたと思います。私にはこのような暴露文は書けませんが、もし書くとすれば末尾に注釈(「この項目は、一部フィクションである」といったような)くらいは付記しておくでしょう。それすら敢えてしなかったのが、もし悪意によるのではないとすれば、文筆家として重大なマナー違反とみなされるべきです。 ちなみにこの項目の後半は、「本当のアカデミズムは現実に対しても有効であるべきだ」という、比較的穏当かつ素朴なスローガンに終始しており、それほど過激さも目新しさもありません。ただし問題なのは、この主張を支え、根拠づけているのが、まさに「小谷真理は巽孝之だった!」という「衝撃の事実」であるという点です。「小谷氏=巽氏」という図式は、小谷氏のフェミニズム批評の立場を無効化するために持ち出されていることは明かです。「それが実は男性の書き手によるものであった」と暴き立てることで、その「似非アカデミズム(山形氏の表現)」性は、きわめて印象的なものになります。なぜなら山形氏は、この項目で何度となく「現実」を問題にしているからです。「現実には女性ではない人間がフェミニズム批評をしている」という事実の欺瞞性を冒頭に置いたからこそ、後半の議論がいくばくかの説得力を持ちうるのです。「小谷氏=巽氏」という表現がレトリックであるなら、つまり「まさか読者は本気にしないであろう」ことを前提とするなら、この項目の後半部分は、単なる個人的な感想文でしかないでしょう。 私の誤解が解けたのは、昨年十一月十五日、日本ジャーナリスト専門学院の文化祭シンポジウム「フェミニンな世紀末 −『エヴァンゲリオン』と『もののけ姫』の導く(新世紀)」に、パネラーとして出席した際のことでした。当日私は大原まり子氏、永瀬唯氏らとともに、同席した小谷真理氏に初めて面識を得ることが出来ました。討論の後で懇親会となり、その席で「オルタカルチャー」のことも話題となったため、私は謝意を込めつつ、実はあれを読んで一時真に受けてしまったということを告白しました。問題になっていることを知ったのも、その時が初めてだったと思います。私は自らの不明を恥じつつも、虚偽の記事のせいで、せっかくの初対面という機会に無用な当惑を感じなければならなかったことに、あらためて怒りを覚えました。私ですらそうだったのですから、あの本が出て以降の、小谷さん自身と周囲の方々の困惑や心労がどれほどのものであったかは、想像を絶するものがあります。「オルタカルチャー」を読んだことのある初対面の人に、しばしば事情を説明しなければならない労力、わずらわしさ、説明や費やされる時間など、もしこれがわが身に起こったらと考えただけでも慄然とします。 二つ以上の筆名を使い分ける著者の場合、「赤瀬川源平」と「尾辻克彦」のように、「芸風」を変えるという意味が大きいと思われます。あるいは精神科医・小木貞孝と小説家・加賀乙彦のように、立場の違いが反映される場合もあるでしょう。これらの使い分けは、誰かに不快感を与えたりするものでもなく、単に便宜上なされていることが多いので、なんら問題はありません。 しかし筆名の使い分けが政治的な立場として利用される場合は事情が異なると思います。それこそ周知の事実として、謎のユダヤ人「イザヤ・ベンダサン」が、日本の評論家「山本七平」であったように。ベンダサンの主張がひろく受け入れられた要因の一つは、その著作物がまさにユダヤ人という異人の視点から書かれたと人々が信じたことが大きい。その証拠に、山本七平亡きあと、ベンダサンの発言はほとんど省みられなくなっています。そして、これまた周知のように山本氏は、本多勝一氏や浅見定雄氏らに「ベンダサン=七平」を指摘されたさい、徹底して否認を貫こうとしました。これは何故でしょうか。 山形氏流の表現をするなら、ベンダサンの主張−−有名な「安全と自由と水のコスト」など−−は、まさにそれが「現実的に価値と力を持つ分析」と受け取られたために、あれほど広く流通したのです。一時は教科書にまで採用されたのも、そうした評価のあらわれでしょう。しかし今や、その「実効性」なるものも、ベンダサンが山本氏であったという暴露によって、あっさり崩壊してしまいました。つまりここで、「現実的な価値」なるものは、「ベンダサンが本物のユダヤ人である」という事実を担保として成立していたのです。 小谷さんの主張は、まさに小谷さんが現実に「女性の立場」にあることによって有効となります。いや、そもそも書き手の立場から遊離した、それ自体でおのずから有効な論議などありえないと、私は考えています。とりわけフェミニズムの「政治性」は、書き手の立場の明確化を、強く要請せずにはおかないでしょう。フェミニズム批評の書き手は、必然的に女性であるべきなのです。もし男性が女性名をいつわって書いているとしたら、これは一種のスキャンダルとして受け取られます。山形氏の「暴露文」は、それが虚偽であることによってのみ、悪質なのではありません。小谷氏の言説すべてを、あたかもベンダサンのそれにも等しい「政治的虚構」であると印象づけようとしていることこそが、問題なのです。このような誤解は、小谷氏の名誉を、著しく傷つけずにはおかないでしょう。 ごく一部の人が「訴訟沙汰など、シャレがわからない人間のすること」「文筆には文筆で応戦すべきだ」といった「感想」を述べているようです。しかし問題の項目は、シャレどころか生真面目なスローガン文なのであって、パロディないしパスティーシュの類には決して読めません。また小谷氏も書かれていましたが、論点の違いについて文筆で反論することは可能でも、書き手の固有性を否定された場合は、この方法はまったく無効です。さきに引いた「ベンダサン=七平」説は、実は決定的証拠はないまま、既定事実となっています。つまり、七平氏あるいは「ベンダサン本人」が懸命に文筆でそれを否認したにも関わらず、誰一人としてそれを真に受けなかったのです。もし「ベンダサン」の固有性を証立てようとするなら、ベンダサン本人が現れて裁判を起こすしか手段はなかったでしょう。しかし「ベンダサン」はついに現れず、「にせユダヤ人」の記憶のみが残りました。小谷氏がもし裁判という手段に訴えなければ、やはり同様に「にせフェミニズム批評家」の汚名が一時的にせよ流通したであろうことは確実です。それこそ現実的に書き手が姿を現し、衆目に顔を曝しつつ、現実的に自らの固有性を明かしてゆくしかない。そうでなければ、誰が好んで裁判沙汰を選ぶでしょうか。 ことは名誉の問題に限られません。自らの性、みずからの固有性を否定されることの外傷性は、精神医学においても、現在もっともヴィヴィッドな問題領域です。小谷さんはまさに、いわれなくそのような外傷を被ったのであり、今後裁判という形で争われる中で、さらに二次的な外傷を受ける可能性もあるのです。私はそれが、今後の小谷さんの批評活動に、何らかの影響を残しかねないことを恐れます。私は小谷さんがそのような外傷の犠牲者にされないためにも、被告の十分な謝罪と、小谷氏の名誉の回復が完全になされることを強く希望するものです。 平成10年9月15日 爽風会佐々木病院 精神科医師 斎藤 環 |