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1.トーキングヘッズ読書会時代の印象 わたしは現在、慶應義塾大学文学部英米文学専攻でアメリカ文学を教えている巽孝之と申します。 学問的な専門領域として教鞭を執っているのは17 世紀植民地時代のピューリタン文学から20世紀現代のSFを含むポストモダン文学にまで及び、さらに比較文学や批評理論なども研究の対象です。なかでも19世紀ロマン主義時代の文学研究を中心にした博士号請求論文は、1987年8月に米国コーネル大学より博士号学位を授与されました。代表的な著作としては、『サイバーパンク・アメリカ』(勁草書房、1988年)や『ニュー・アメリカニズムーー米文学思想史の物語学』(青土社、1995年)、アメリカでの共同研究にはStorming the Reality Studio(Duke UP, 1991)やIn Memorium to Postmodernism (SDSU Press, 1995)などがあります。また非常勤講師としては1988年以来、東京大学や筑波大学、京都大学、東北大学、広島大学など多くの他大学でも授業を担当し集中講義を重ね、ハーヴァード大学やブラウン大学、コーネル大学などでも講演を行って参りました。学界関係すなわちアカデミズムでは、まず我が国において、1995年より本年まで日本英文学会や日本アメリカ文学会、日本アメリカ学会、そして日本ペンクラブの各編集委員を歴任してきましたが(日本アメリカ文学会では現在、評議員も兼任)、一方アメリカにおいても、1994年ごろより学術誌Science-Fiction StudiesやPara*Doxa、それにElectronic Literature Organizationの編集顧問を歴任しております。そのほか、日米における学問的な受賞歴については履歴書をご参照下さい。また、文筆関係すなわちジャーナリズムでは、専門の関係上、内外の文学全般や文化史関係で書評やエッセイなどを書く機会が多いのですが、とくに1980年代末ごろからは、朝日新聞や読売新聞、東京新聞などの書評委員を担当して参りました。わたしの人物像については作家の筒井康隆さんが御著書の中で一章割かれておられますので、そちらをご覧下さい。 さて、今回、山形浩生さんのお書きになった文章は、アメリカ文学研究およびSF批評を中心に以上のような活動を行ってきたわたし自身の学者批評家としての位置そのものを攻撃するという動機もじゅうぶんに窺われるものですので、ここに陳述書をしたためる義務を感ずるに至った次第であります。 山形浩生さんと初めて知り合ったのは、たしか1983年ごろのことだったと思います。当時わたしは、1980年前後から永田弘太郎(現・本の出版社社長)、志賀隆生(現・評論家)、新戸正明(現・ノンフィクション作家)の三氏が都内は高田馬場を中心に主宰してきたトーキングヘッズという名のSF読書会に参加しておりました。そこにおそらくは最年少のメンバーとして、そのころ大学に入ったばかりであったであろう10代の山形さんは参加し始めたのでした。 当時の山形さんの印象はといえば、正直なところ、現在とまったく変わりません。毒舌めいた表現を用いるのを好むのですが、主張しているその内容自体はそれ以前にも多くの人々が展開してきたのとまったく変わらないもの、すなわち独創性に欠如したものが多かったのです。したがって、わたしはそのころ、彼に面と向かって、ひとつの意見を口にする前にもっとよく考え、もっと充実した建設的な議論を行うよう、注意したことがありました。彼が議論の文脈そのものをよく理解していないと見受けられた時もあったので、もっと日本語の論理の展開をきちんと把握するよう、老婆心ながら文書のかたちで噛んで含めるように諭したこともありました。けれども、何といっても当時の彼はまだ二○歳になるかならないかという若さだったのですから、いずれ年齢とともにそうした軽率さは解消されるであろうと、十歳は年長者にあたるわたしはきわめて寛大にとらえておりました。 しかし、にもかかわらず山形さんは、この時点、すなわち1980年代前半においてもすでに、たんに若気の至りといった理由ではとうてい見逃すことのできない暴力的な言動をいくつか残しており、そのうちのいくつかは目に余るものがあったため、ここでは、のちに今日の裁判を引き起こすことになる彼の本質的傾向と関連の深く、活字メディアにおいてもあるていど事実の輪郭を再確認できる事例をひとつだけ、略述いたします。 2. 1984-85年--ひとつの原型的筆禍 この事件は、わたし個人ではなく、まさに前掲雑誌<SFの本>編集長・志賀隆生氏の伴侶であり、現在ではサントリー学芸賞も受賞されて広く活躍しておられる文芸評論家・川崎賢子氏のケースです。彼女は1985年5月に春の定例SF研究集会<SFセミナー>の講師として招聘されたのですが、その時の講演「新井素子をめぐって」に対して、山形さんは前掲エッセイ「自転車をこぎながらーーSFセミナーユ85からの帰還」で川崎氏の講演が話し言葉ではなく書き言葉であることを批判しつつ、以下のように記しました。「つまらぬ芸でも、女性がやれば普通許される。だが、それが一時間以上続くとなれば話は別だ。(中略)そっちが客を無視するなら、客もそっちを無視するだけのこと」。 こうした暴言に対し、当時、新時代社から刊行されていたSF批評誌<SFの本>の連載コラムにおいて、川崎氏が激怒したのはいうまでもありません。彼女の批判の論点は、今日の裁判にもいまなおじゅうぶんにあてはまると確信しますので、以下に引用します。「この文章の卑しさは(中略)自分の判断ないしは思いこみがずらされたことに対するうらみつらみによって他者を指弾することが正当だという固着した感性からきている。(中略)引用の文章には、<客商売>にたいする高慢な差別の悪臭が、まるで娼婦にいばりちらす客の言質のようにただよっているが、娼婦にだって感じない権利はあるのだ。(中略)『つまらぬ芸でも、女性がやれば普通許される』という目もあてられない美意識の持ち主にたいする戦略はどうあるべきか?」(<SFの本>8号、1985年10月20日刊、104-5頁)。 おそらく山形さんは、自らの女性差別表現を女性差別表現として認識さえしていなかったにちがいありません。しかし当時からフェミニズム理論に造詣の深かった川崎氏は、山形さんの無意識に露呈した言説のなかにひそむ明らかな女性差別とそれに根ざす暴言の構造をみごとにテクスト分析してしまいました。もともとSFファンの世界の一部には「女にSFがわかるか」といった抑圧的言説がありましたから、山形さんもそうした風潮に染まっていたのでしょう。しかし、そうした差別的風潮が存在するということと、それを公の場で活字にするということはちがいます。ゆえにわたしは、こうした差別的無意識を自然なものと捉えているらしい山形さんに対して、この点においても、そのうち大事件でも起こさなければいいが、とひそかに心配しておりました。 3.山形的主体の成り立ち--唯我独尊傾向と差別的無意識 以上、かれこれ十五年前ではありますが、山形さんと知り合ったころのことと川崎賢子氏のケースを並べてみますと、前者が彼の「読めていないのに書きたがる」唯我独尊傾向を、後者が彼の「女性差別しても指摘されるまで自分では気づきもしない」差別的無意識を明らかにしていることがわかりますが、ここで考え込まざるをえないのは、かれこれ十五年ほども以前に暴露されあらかじめ批判すらされているこれらふたつの傾向が、今回の裁判のもととなった山形さんの文章にそっくりあてはまってしまうことです。「小谷真理が巽孝之のペンネームであるのは周知で」という言説は、少なくともわたしたちふたりの決して少なくはない著作を律儀に読み続け理解してきたであろう読者・編集者の口からは絶対に出てこない唯我独尊傾向の産物ですし、その折に、彼は逆の論理すなわち「巽孝之が小谷真理のペンネームであるのは周知で」という展開を決して選ばなかったということも、夫婦というユニットへの偏見がおそらくあまりにも強いため自動的に夫よりも妻の方を抹消してしまうという差別的無意識のいちばん顕著な表明にほかなりません。 むろん山形さんは一応は項目の題名「小谷真理、あるいはそれを泡沫とするニューアカ残党似非アカデミズム」に沿って1980年代日本のニューアカデミズム(以下ニューアカ)なる動きを批判し体裁をつけようとはしていますが、わたしはこのニューアカなる潮流が流行しピークを迎えていた1980年代半ばには、前述の通り1984年から87年まで3年あまりアメリカ留学していましたから、一方的に日本的ジャーナリズムなりの括り方をあてはめられても無理が生じるばかりですし、ニューアカ機関誌としての『GS』(冬樹社)にも以後の『インターコミュニケーション』(NTT出版)にも一度として寄稿したことはなく交友関係もないのですから(小谷真理氏に至っては、一度として大学院教育を受けたことも大学機関に正規に勤務したこともないし、1980年代にはまだ本格的な批評活動にさえ入っていません)、山形さんからなぜその一味のように分類されなくてはならないのか、まったくわけがわからないのです。 4.巽孝之と小谷真理、ふたりはどう違うか 巽孝之と小谷真理の守備範囲がまったく異なっているのは、すでにこれまで提出された陳述書においても多くの方々が証明して下さったことでもあり、あらためてくりかえすまでもないでしょう。わたしの専門領域は十九世紀を中心としたアメリカ文学一般と文学批評理論でそこにはSF研究も入り、小谷真理の専門領域はフェミニズムSFを中心とした大衆文学・大衆文化全般です。夫婦で日米双方を舞台に文学・文化の研究・批評に関わっている以上、お互いのあいだに一種の共同研究者同士とでもいえる関係が生じるのは当然で、夫婦別姓にしているのも、そのほうがいっさいの従属関係なしに互いを独立した書き手として客観的に協力し批判し合うことができるからです。 こうしたわたしたちふたりの関係を、ひとつの典型的な例によって傍証しましょう。たとえば、被告・山形さんも引用しているリチャード・コールダーの『アルーア』(トレヴィル、1991年)に付したわたしの解説で「ガイノイド宣言」という文章があります。コールダーはわたしがイギリスの雑誌で発見し、日本への輸入に一役買った作家ですが、この解説における限り、わたしは、アンドロイド(雄すなわちアンドロで人間一般を代表する言語習慣に基づいて作られた人間もどき、すなわち人造人間を表す造語)のアンチテーゼたるガイノイド(雌しべを示すガイノを付して作られた女性形人造人間、一般に人造美女の種族を表す新造語)について、あたかもコールダー自身が独自に発想したかのように思っていました。しかしそのあと、小谷真理氏がバベル・プレス刊<翻訳の世界>誌で始めた連載を進めるうちに、彼女がガイノイドなる造語の起源がイギリス女性作家ギネス・ジョーンズの作品にあることを発見し、そこから教えられることの多かったわたしは、前記「ガイノイド宣言」を以後の自著である論文集『現代SFのレトリック』(岩波書店、1992年)に再録するさいに、以前の誤謬を訂正する意味で、注釈において小谷氏への負債をきちんと銘記しているのです。「なお、ジョーンズとコールダーの『ガイノイド』概念のズレについては、以下の論文に詳しい。小谷真理『猫と少女とガイノイドーーギネス・ジョーンズ「聖なる容忍」を読む』、バベル・プレス刊<翻訳の世界>一九九二年二月号、八十六-八十九頁」(『現代SFのレトリック』二二四頁)。 仮に夫婦であっても、わたしは小谷真理独自の発見や理論には心から敬意を表してきましたし、それは彼女がわたしに対する場合にも同じです。わたしの理論的盲点を小谷氏が洞察することもあれば、小谷氏の理論的問題点についてわたしが助言することもあります。相互にやりとりされる理論は、ポスト・フェミニズムからニュー・ヒストリシズム、クイア・リーディングまで多岐にわたり、とうていひとことでまとめることはできません。両者のあいだで議論がたえず交わされるのは、ひとえに各人独自の領域を再確認するためです そもそも、他者の理論がどこまでか、自分自身の独創性がどこからかを示すのは批評研究上、最も重要な問題であり、だからこそ論考には適切な引用と妥当な注釈を盛り込むことが必要なのですが、おそらくはそうした学術的傍証のイロハさえご存じなく唯我独尊傾向ばかりを優先させる山形さんには、それらを「引用の多さ」としか認識できないらしい。けれど、素人目には同じテーマに見えても、われわれがそれをまったく違うスタイルで処理していることは明らかであり、だからこそ双方の担当編集者もまったく異なる人物になることが多く、その証拠に、これまでに「巽さんでも小谷さんでもどちらでもいいですから」という原稿依頼を受けたことは、ただの一度もありません。 とくにわたしはマンガやアニメを正面切って論じたことは皆無であるため、山形さんが「小谷真理は巽孝之のペンネーム」と断定するなら、少なくともわたしが著作権をもつマンガ論ないしアニメ論をさがし出し白日のもとにさらしたうえでなければ、誹謗中傷すら行う資格はないでしょう。そのうえで、両者の文体が似ているとかいうならわかりますが、少なくともオルタカルチャーのホームページにおける「お詫びとご報告」では、『オルタカルチャー』当該項目には出てこない「巽氏と小谷氏は実生活において夫婦である」という情報が基盤となり、それはさらに「どうせ巽が書いているに決まっている」という唯我論的妄想に支えられているのですから、ことの本質は女性差別とともに夫婦差別にまで及んでいます。 したがって、わたしが最初、原告・小谷真理と同じ経緯によって1997年10月に『オルタカルチャー』を一瞥した時に、山形さんはまたもや自らは語る資格のないものを扱っているな、という印象を抱いたのは当然でしょう。山形さんは小谷真理を語るべきその項目において、何よりも小谷真理の『聖母エヴァンゲリオン』という著作の内容というよりも、それが<SFマガジン>の書評欄などで高く評価される風評のみを気にして勝手にいきり立っているからです。しかも奇妙なのは、「小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で」と断定しながらも、当の巽個人による単独の著作がひとつとして言及すらされていないことです。山形さんの理解では、雑誌の記事や翻訳小説の解説を飛ばし読みしただけでじゅうぶん巽の著作にふれたことになるのかもしれませんが、いやしくも「小谷真理」というひとりの人格を扱うサブカルチャー事典の項目を引き受けた以上、その人格の名で発表された著作にことごとく親しんでいるのは当然で、しかもその小谷真理が巽のペンネームだと断じるのですから、わたし個人の手になる、日米で発表された少なからぬ文献のほとんどにも目を通していなくては、そもそもこの項目を執筆する資格はありません。はたして、山形さん執筆のこの項目の文章からは、小谷真理の著作にも巽孝之の著作にも、きちんと通じているわけではないこと、にもかかわらず妙な思いこみばかりを優先させようとしていることだけが、伝わってくるのです。 媒体が山形さん個人の書き手としてのキャラクターを売り物にした月刊雑誌のコラムか何かであれば、ことはまったくちがう展開になったかもしれません。しかし、この事件が裁判にまでなったゆえんのひとつは、少なくともメディアワークス編集の『オルタカルチャー』という書物は、サブカルチャーを中心に具体的に役立つよう企画されているれっきとした事典であったからです。そのうえ各項目の末尾にはいちいち執筆者名が記されておらず巻末の項目・執筆者対照表をていねいに辿らなくてはどの項目を誰が書いたのかわからない以上、半匿名といっていい方式を採用していたからです。じじつ、「小谷真理」の項目にも「SF」の項目にも、項目末尾には山形浩生の署名は見あたりません。事典であり、項目が半匿名であるというこれらふたつの条件がそろえば、そこに書かれている記事はすべて「レトリック」など介在する余地のない真実であることが保証され、とてつもない信憑性を帯びざるをえないのです。したがって、山形さんがやったことというのは、まさに事典と半匿名記事の言説的約束事を利用しながら虚偽を書き立て、読者にそれをむりやり真実と信じさせようとした行為のように思われます。しかし、『集英社世界文学事典』などで多くの項目を執筆したわたし自身の経験からいわせていただければ、そもそも事典という形式は、誰がどの項目をどう書くかということよりも、誰が読んでも信頼するに足る「事実」を提供することに重点を置くのが当然であり、そこにイエロー・ジャーナリズム並みの「レトリック」を期待する読者など、ただのひとりも存在しないといっても過言ではありません。 さらにここでは、山形さんがそもそも『聖母エヴァンゲリオン』なる書物をどうやらちゃんと読まぬまま項目を執筆しているらしいことについても、一言申し述べておきましょう。彼は小谷真理が「二項対立」について分析しようとしているかのように語っていますが、あの本で小谷真理が主張しているのは、それこそ「あなた、女になりたいの」というオビに集約されているように、むしろアリス・ジャーディンのガイネーシス理論に立脚したポスト・フェミニズムによる、ひいてはイヴ・セジュウィックらのクイア・リーディング(性倒錯批評)による「二項対立の脱構築」であることは一目瞭然です。しかも、のちにインターネット上で山形さんが告白したところによれば、彼は『オルタカルチャー』執筆時点でアニメの『エヴァンゲリオン』劇場公開版を見たこともなかったというのですから、ことは深刻です。原作も完全には知らず、それに関する批評書が基礎にしている理論も知らず、フェミニズム批評とポスト・フェミニズムの区別も知らぬまま、風評だけを相手に、その著者の夫婦関係を悪意によって誹謗中傷してしまったというのが、山形さんの今回の文章の明白なる構造であると、わたしは確信しています。 5.『聖母エヴァンゲリオン』その執筆過程の真実 さいごに、これは『聖母エヴァンゲリオン』の内容というよりは、成立事情の面から、これが女性批評家の手によってしか書かれえなかったであろうことを明かすいきさつがありますので、それを披露して終わりたいと思います。 というのも、小谷真理氏の本書は、そもそも彼女が1989年、青土社の<現代思想>誌にデビューした当時からの女性解釈共同体とでも呼べるネットワークに支えられて初めて可能になっているからです。彼女はダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言」の翻訳をきっかけに同誌と積極的に関わるようになり、以後はそこへサイボーグ・フェミニズムを足場にした数々の論考を発表してきましたが、その折の編集部にいた石井真理、喜入冬子の両氏とは日本におけるポスト・フェミニズム批評形成のうえで以後も長く友情を培うこととなり、だからこそ小谷氏はマガジン・ハウスへ移籍したあとの喜入氏からの依頼を受諾するに至ったのです。喜入氏はマガジン・ハウス移籍早々の1990年代前半の時点から小谷氏の理論的成長を暖かく見守り、企画の件でよく拙宅を訪れてこられましたから、その結果、築き上げられた友情と信頼によってようやく1997年に念願の『聖母エヴァンゲリオン』を一緒に作ることになったことは、小谷・喜入双方にとって感無量だったことと推察します。わたし個人は、前述のとおりアニメを論じることができるほどにはこのジャンルをわかっていないため(そのことは『聖母エヴァンゲリオン』とほぼ同時期に出た拙著『恐竜とアメリカ』[筑摩書房、1997年]あとがきで、「アニメよりも実写系SFXに惹かれざるをえない個人的嗜好」という表現ではっきりと表明しています)、企画にも何ら口をさしはさんでいませんーーというか、あまりにも女性解釈共同体の結束が固くて、とうていつけいる隙はなかったというべきでしょうか。 いちばん印象に残っているのは、1997年5月あたりから、喜入氏の著者・小谷真理へ活を入れるような催促が頻繁になり、ますます激化していったことです。このころといえば、毎朝わたしが起きるとすぐにほかならぬ喜入氏から「おはようございます」といわれ、毎晩わたしが大学から帰宅するとやはり彼女から「おかえりなさい」といわれるのが常でしたから、あたかも三人で生活しているかのような感覚であったのを、まざまざと覚えています。そのような厳格なる編集者・喜入冬子氏の徹底した管理体制のもとでのみ、小谷真理氏の『聖母エヴァンゲリオン』は執筆が可能になったのであり、げんに小谷氏がガイナックスへ赴き庵野秀明氏から図版の使用許可を取る時にも、そうした複雑な手配すべてを取りはからったのは喜入氏でした。 そのような製作段階を経た『聖母エヴァンゲリオン』に、わたし巽孝之が介入する余地はいささかもなかったのです。もちろん、草稿段階のテクストにあらかじめ目を通すことはありましたが、それは夫婦の物書きであり批評研究上のパートナーである以上、互いに互いを批判するための必然的な習慣であり、互いにとっての共同研究者・批評家・編集者以上の意見を交換するものではありません。ましてや、ペンネーム関係と断定されるいわれはまったくありません。もしそうなら、あらゆる作家と編集者はペンネーム関係ということになってしまうでしょう。何よりも、山形さんの断定とは異なり、小谷真理は実在し独自の批評活動を行い、前述のとおり巽の批評活動にも批判的な見解を提供するほどなのです。とりわけ『聖母エヴァンゲリオン』の場合には、パートナー以上に現実の編集者・喜入氏の判断が絶対であったことは、いくら強調しすぎてもしすぎることはないでしょう。 結論を申し上げます。山形さんから『聖母エヴァンゲリオン』の著作権に関して「小谷真理は巽孝之のペンネーム」と断定され、小谷真理はまごうことなき性差別的筆禍すなわちテクスチュアル・ハラスメントを被りました。一方のわたし巽孝之は、自分がいっさい理解していないアニメ評論を自らが書いたと断定されたことで、自らの責任の負えない領域にまで手を出しているかのような、あたかも自分が文学的詐欺師であるかのような誤解を広くもたらすことになりました。くりかえしますが、わたしはマンガもアニメも論じることができるほどには理解していません。にもかかわらず山形さんの断定は、あたかもわたしがそれらを堂々と論じて一冊の書物をものしたかのような印象を与え、わたしの文筆家的良心を大いに傷つけました。自らの責任を負えず論じる資格もない領域でも平然と手を出し口を出して怖れないのが山形さんの流儀なのかもしれませんが、そうした自分勝手な理屈を、その著書内容を理解してもいない他人にむりやり押しつけていただきたくはないのです。 今回の裁判において、小谷真理氏は自身の著者としての人権を返すよう要求していますが、わたしとしても、自身のしかるべき文筆領域を返していただきたい、と切望する次第です。ただし、それもこれも、被告・山形浩生さんが、さて巽孝之の文筆領域とは何か、小谷真理の文筆領域とは何かを正確に理解する資格と能力を持ち合わせていれば、の話ですけれども。 慶應義塾大学文学部教授 アメリカ文学専攻 巽 孝之 |