小林富久子氏
斉藤環氏
水民玉蘭氏
巽孝之氏
藤森かよ子氏
小谷真理氏


藤森かよ子氏による陳述書



 私が、本裁判について知ったのは、平成10(1998年)年1月29日発行の朝日新聞夕刊『単眼・複眼』欄の「名前にも潜む?女性差別」という記事からでした。とうとうやっと、この問題が浮上してきたか、というのが第一の感想でした。と同時に小谷真理さんの提訴が、不可視であったこの問題を世に問い、その問題の原因となる性差別、人権侵害を明らかにし、こうした社会的不正の是正、軽減を実現する一契機となるであろうことに、期待と喜びを感じました。しかし、この問題の特殊性から関係者の方々の理解がなかなか得られないことになるかもしれないとも、危惧いたしました。この陳述書は、その危惧の念から書かれております。

 この問題の特殊性は、夫婦がどちらも著述活動をしているという事例の少なさから生じますが、この例が比較的珍しくない分野に大学などの高等教育・研究機関があります。教育・研究職に従事する者どうしが婚姻関係や事実婚状態にあり、それぞれが学会発表や論文や著書の形で、研究内容を公けにしている例は、少なくありません。私も、その例にあてはまります。私個人の体験・見聞から、この問題の重要性を明らかにしたい意図もあり、この陳述書を提出いたします。

 共同研究が多い自然科学系分野とは違って、人文系分野の研究論文は単著でなされることが多いのは学問形態の差からきております。膨大な実験データの蓄積と分析から抽出する事実の特定が自然科学の研究形態であるならば、個人の思想の個別性からくる発見・洞察の個別性の明白さ、及びそれを論理として社会化・普遍化するその過程の説得力が、人文系学問研究の要です。したがって、人文系学問の研究論文や著作において、共著の場合は執筆分担は必ず明示されます。個人の発想、論旨、展開の独自性が重視され、かつ先行する研究との差異を明確にすることが要求されます(私が、小谷真理さんの著作に注目してきた理由のひとつは、こうした人文系学問の正統を実践している小谷さんの論述の知的誠実さです)。基本的には、自然科学の分野においても、この原則は厳しく適用されていると考えられます。

 したがって、研究者と研究論文に要求される、このような独自性・自立性が、脅かされたり、無効にされることは、研究者にとって最も損害の大きなことです。平成9年(1997年)に出版された東京大学教授上野千鶴子さん編集の『キャンパス性差別事情−ストップ・ザ・アカハラ』(三省堂)は、それまで女性研究者間では常に論議されてきた性的嫌がらせ(セクシュアル・ハラスメント)を含んだアカデミック・ハラスメント問題を公にいたしました。その事例のひとつとして、女性研究者の研究成果が男性研究者によって横領された、筑波大学の「論文盗用事件」が報告されております(第2部・10章)。論文業績の少ない男性教員の昇進に利用するために、修士論文をその男性教員の名前で学会誌に発表されてしまった女性の大学院生の事件です。これに似たことは、私が知る範囲でもあります。女性の非常勤講師の雇用期間の延長と引き替えに、その女性講師の論文を自分との共著として大学の紀要(論集)に載せることを要求する男性教授や、女性の大学院生の論文を自分の論文に利用して発表する大学院の男性指導教授など、訴訟までに至らずとも、この種の問題は女性研究者間では私的には内密によく話題になってきたことではありました。

 これらのような深刻な問題が公にされなかったのには、理由があります。その説明として、便宜上、私が所属しております「会」の活動を参考にあげさせていただきます。私は、昭和60年(1985年)以来、自宅のある名古屋市を拠点とした「愛知女性研究者の会」に所属しながら、会員たちとの勉強会や情報交換により、大学や研究所などの高等教育・研究機関における性差別問題を考えてきました。その会も、平成8年(1996年)に20周年を迎え、活動記録をまとめ出版いたしました。(参考資料『女性研究者−愛知女性研究者の会20年のあゆみ』ユニテ出版)。この「会」は、もっぱら女性研究者の雇用問題・就職差別を中心に活動してきました。日本学術会議や日本科学者会議にも、この問題を提起してきました。まずは日本の高等教育・研究機関において補助職ではない正規のメンバーとしての女性研究者を増加させなければ、この分野における性差別構造を変えることができないという判断からです。就職後における性差別問題については、後回しにされ、とりあえずは不問にされてきました。「女が就職できたのでさえ、運が良かったのだ。愚痴は言うな。弱音は吐くな。被害者意識を持つな。だから女はと言われないように、授業も研究も雑用も手を抜いてはいけない」という心理的規制もありました。最近になり、やっと職場環境における性差別現象を「個人的悩み」ではなく女に共通する集団的問題として語ることができるようになったのは、女性研究者の層の厚さ(といっても、わが国において、女性教員の割合は、常勤で雇用されている全大学教員の一割程度ではありますが)がやっと形成されてきたからです。また、これは1960年代のアメリカ合衆国における公民権運動から生まれた第二次女性解放運動に端を発した日本のフェミニズム運動が自ら獲得した、ささやかな成果でもあります。前述の『キャンパス性差別事情−ストップ・ザ・アカハラ』の出版もその成果です。

 私は、通算12年あまりを大学の教員として過ごしております。この1980年代半ばから現在にかけての時期は、それ以前より、私を大いに怒らせ悩ましてきた性差別問題が、抑圧され隠蔽された状態から、明らかにされ論議され、裁判闘争され、マスコミにも注目され、その対策の実践が遅々たる歩みではありますが、確実に試みられてきた時代でした。私は、このことに大きな感慨を持っております。

 さて、研究者として最もダメージを与えられる問題が、研究成果の独自性と自立性をめぐるものであることは、すでに述べました。この問題が女性研究者にまま起きることであることもすでに例示したとおりです。「まま起きる」と言うよりは、男性研究者より女性研究者にとって多く起きがちな問題であると断言できます。女性の論文を横領することは、男性のそれを横領することよりも、横領者にとって心理的にも社会的にも容易であるのは、女性の役割を男性の補助・奉仕者として固定する伝統的な女性観によるものです。また、女性を主体を持つ独立した人間として、対等に遇せない男性中心社会の後進性の学術・学会版と言えます。

 この問題と類似して原因は共通しているが、より微妙な問題があります。微妙で事実認定のしがたい私的領域に関わることなので、公にも取り上げられてこなかった問題でもあります。夫や父など家族の男性成員が同分野、もしくは類似した分野の研究者である場合、その女性研究者の業績を、夫や父が代筆しているとか、夫や父との共著であると言うことによって、その女性の業績の正当性を傷つける行為の問題です。女性の大学院生の修士論文レベルにおいても、その女性の夫や父が研究者である場合、同じことが言われることがあります。たまたまその女性院生が男性の指導教授と良好な人間関係を持っている場合も、その男性教授が加筆していると言われたりします。この行為が、その夫や父(もしくは男性指導教員)の論文と、女性の論文を並べ比較して具体的に類似点を指摘することによって、なされるということはありません。あくまでも、日常的なゴシップとか悪い冗談、陰口のレベルで言及されるのが通常です。

 約20年前に大学院に入学して以来、たびたびこうした行為を見聞した私は、同じ分野や同じ学会の研究者との婚姻は避けるのが、賢明であると考えました。その考えは今でも変わりません。こうした行為は、現在でもよく見受けられることだからです。それでも、似たような行為に私自身出会ったことがあります。私が初めて出版した翻訳書の文章を「読みやすくなるように訳文をご主人に書き直してもらったでしょう?」と以前の勤務先の男性の同僚から言われました。私の夫が、日本文学の研究者だからです。

 これらの行為は、表面的には、単なる無神経や悪意や嫉妬や配慮のなさ、無教養から生じる些細な事柄に見えます。確かに、人間性が内包する矮小さから生じる矮小な現象です。しかし、その影響と意味は決して矮小ではありません。問題は、実際に夫や父や男性指導者が書いているかどうかの事実の認定ではありません。問題は、なぜ、こうした「代筆」言及がもっぱら女性研究者についてなされるのかということです。明らかに、この「言語習慣」の基底にあるのは女性差別です。私の知る限り、男性研究者の場合、なぜかこういう言及がなされません。前述の「女性の役割を男性の補助・奉仕者として固定する伝統的な女性観」のために、妻や恋人や家族の女性が男性の業績作りに協力するのは当然であり、言い換えれば、女性の協力の専有・搾取は自然なことなので、いちいち取りざたされないのかもしれません。

 また、ある男性研究者などが妻などに論文作製の援助を受けているということを示唆することは、ある女性研究者が夫などに「代筆」してもらっていると噂することに比べると、あまりに事が深刻すぎるので、口に出したりはしないという規制や配慮がはたらくのかもしれません。男性の無能を示唆することは、責任を問われる中傷でありスキャンダルだが、女性の無能の示唆は気軽な冗談になる、冗談にしていいというわけです。

 こうした「言語習慣」は、明らかに「女に書けるはずがない」という女性蔑視が前提となっています。また「女の書くことなどまともに扱う気はない」という女性排除・女性否定の心性が基盤にあります。女性研究者が、「女に書けるはずがない」「女がこんなこと考えつくはずがない」と暗黙の内にその業績の個別性・自立性・正当性を割り引かれるということは、女性研究者を研究者ならしめている諸能力が否定されることを意味します。専門職に従事する者としての資質が疑われるわけですから、眼には見えなくても、その影響と被害は小さくありません。

 しかし大学に勤務する女性の場合、この実害は比較的軽くなる可能性もないではありません。大学における直接的な仕事の大部分は、授業などの教育サーヴィス労働と学内運営や入試業務などの公務が占めていて、研究者としての能力を疑問視されていても勤務はできるからです。エリート養成と研究を目的とする一部の大学以外の圧倒的多数の大衆教育機関としての大学においては、教員スタッフの研究能力の欠如と衰退は致命的な問題にはなりません。何年間も論文生産していない「研究者」「学者」は、ほとんどの大学に多く生息しております。

 また、家族の男性成員による「代筆」を云々されることになるほど、目立って研究活動で頭角をあらわせる女性研究者ばかりではありませんし、その女性研究者の業績を「代筆」できると言われるほど研究能力を認められる男性研究者が、たまたまその女性の家族である例も多くはありません。ですから、女性研究者一般にとって、この問題が就職差別や昇進差別や性的嫌がらせほどの深刻さを持ってこなかったし、持っていないことは事実です。それが、この問題が可視化されにくい理由です。また、この問題の特殊性も、ここに起因します。しかし特殊だから、事例が少ないから、重要な問題でないとは言えません。この問題はきわめて一般的な普遍的な女性差別構造から生じていることは、すでに言及いたしました。女性研究者にとって、「代筆」言及という「言語習慣」は、研究者としての存在証明の点から見て、就職差別・昇進差別・性的嫌がらせと同等どころか、それ以上の不正と暴力になりうるのです。

 本裁判の山形浩生被告の『オルタカルチャー日本版』の記述は、本来ならば、「最低限の常識」においては、私的領域で交換されるゴシップの中にのみ回収・霧散されるべく処理される「言語習慣」です。この「最低限の常識」すら守られず、それが出版物で活字にされ公に発信されたという事実には驚きました。こうした「言語習慣」を根絶させることは不可能です。矮小で卑しい人間が実在するのは現実であり、ゴシップまで管理することはできません。モラルは守られるべきですが、それを強制することはできません。しかし、そのゴシップの出版を認めた編集者や出版社の見識のなさと、知性の低さと、出版という社会的仕事に対する倫理的責任感の欠如は責められるべきです。

 小谷真理さんが、フリーの評論家であり著述家である点において、こうした「言語習慣」の不正と暴力は増幅されております。著作などの業績以外にも評価対象となる労働に従事する女性研究者が被る害とは比較になりません。執筆活動に依って立つ人間に対して、「おまえの書いたものは他人が書いたものだ」と言うような内容の無駄口を活字で公にすることの暴力性もさることながら、「亭主が書いたのに自分で書いたような顔をしている。おまえに書けるはずない。女のくせに」と言わんばかりの、女性の能力や業績を貶める言動には、大きな怒りを感じます。法的に、また広く社会的に謝罪が求められ、懲罰が加えられるべきです。

 私は、本裁判が、女性差別問題の解消に貢献し、社会的正義の実現の一契機となることを期待しております。この陳述書が、この問題の本質を明らかにし、かつ関係者の理解と共感を促す一助となることを願っております。

平成10(1998年)年7月1日  

  桃山学院大学教授   

藤森かよ子   



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