小林富久子氏
斉藤環氏
水民玉蘭氏
巽孝之氏
藤森かよ子氏
小谷真理氏


水民玉蘭氏による陳述書



 私は現在、水民玉蘭(みずたみ・ぎょくらん)名義で、アニメー ションおよび映画を専門とするフリーランスライター業に携わっております。また、平成9年には、駐華日本国大使館、国際交流基金の後援を得て、中華人民共和国北京市で開催された「日中映画監督シンポジウム」では、総合プロデュースを担当いたしました。

 本件で取り上げられているオルタカルチャー日本版(以下、当該 書籍と表記)については、これを購入した時点で私は原告・小谷真理氏とは一面識もなく、したがって当該書籍の記事を完全に信用するに至り、のちに私とも小谷氏とも知己である評論家の永瀬唯氏より、その誤謬を指摘、訂正されるという経験をしております。

 その時の経緯を小谷氏に話しましたところ、小谷氏よりその体験 を陳述書の形で詳説し提出してもらいたいとの依頼を受けました。購読当時、本件の当事者の方々から最も遠い一読者でしかなかった私にそのような責任ある陳述ができるか躊躇いたしましたが、逆に言えば、一読者であったからこそ客観的な視点で陳述することも可 能かと考え、ここに自身の体験した事実を陳述書の形で提出いたします。

1.購入経緯


 当該書籍は、平成九年十月十五日に、東急電鉄新玉川線(営団地 下鉄半蔵門線)渋谷駅と地下通路で繋がっている旭屋書店渋谷店の地下一階新刊売り場で偶然目に止め、購入いたしました。自宅が新玉川線と連結する東急田園都市線沿線にあることから(※当時。本年八月以降より新玉川線名称は廃止され、渋谷駅まで田園都市線名 称で統一)、仕事および私用で都内に出る際は、帰宅の折にこの書店に立ち寄り新刊コーナーを覗くことを習慣にしており、当日は渋谷で映画を観た帰途に同書店に立ち寄ったと記憶しております。

 当該書籍は、当時、まだ刊行されたばかりで、新刊コーナーに目 立ちやすい形で平積みされておりました。当該書籍のまえがき部分からは、それがサブカルチャーの解説書という印象を受けました。

 私は当時、平成六年から三年間にわたる中国留学生活を終えて帰 国したばかりで、日本の最新流行事象を吸収することに貪欲になっておりました。ですから、当該書籍も、サブカルチャーを一冊の書物で総覧できるのではないかという期待を持つに至り、迷わず購入いたしました。

2.本書の所感


 同書の中には、同書も含むオルタブックスというムックシリーズのチラシが添付されており、その紹介文は以下のようになっています。

「オルタカルチャー日本版 女子高生から精神世界まで、すべてのモノが等価にマニュアル化できるようになった“超”大衆化社会としての終わりなき楽園。オモチャとドラッグと電脳の世紀末。サブカルチャーのいきついた果てとしての現在を象徴し、かつ次代を見渡せるキーワード群を、完全解説する。」

 「現在を象徴し、次代を見渡せるキーワード群」が「完全解説」されているという惹句は、煩雑になっているサブカルチャーの全体像を一冊の書物で総覧できるメリットを強く感じさせます。最近では、広辞苑の第5版が「解説」という言葉を広告に使用しておりますが、それと同様に既成の事実を詳説する書物という印象が、このチラシからは感じられました。また、本書内に書かれている各項目についても、レトリックや語り口が軽くふざけているものはありますが、それらもまた事実を基調に置いている姿勢を貫いております。従って、私にとって当該書籍は、一貫してフィクショナルな部分が入り込む余地のない、既成事実を辞書的に解説する書籍として評価し、その価値において購入を決めたものであります。

3.該当項目を事実として了解するに至った経緯


 以上のような価値観を持って当該書籍を購読したため、私はしばらくの間、小谷氏に関する記述(「[こ−008]小谷真理、およびそれを泡沫とするニューアカ残党似非アカデミズム」120ページ=以下「該当項目」と表記)についても、事実であるという認識を抱いておりました。

 なお、私は、きわめて早い時点で該当項目を故意に検索して読みましたが、それは、当該書籍が刊行される直前に、小谷氏の著書『聖母エヴァンゲリオン』(マガジンハウス)を購読し、氏の主張や意見に興味を持っていたからであります。従って、オルタカルチャー日本版と名乗る書籍内において、日本のサブカルチャー内で小谷氏はどのような評価を得ているのか、という興味から検索したわけであります。因みに、なぜ小谷氏をわざわざ検索したかという経緯について述べておきます。当該書籍に目を通すと、当時の風潮からアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』に関する項目および記述は複数あり、特にさわらぎ野衣氏による解説(P162〜165)のように目立ったページもあったため、エヴァンゲリオンに関わった人々を検索するうち、おそらく小谷氏のことを解説した項目もあるだろうと確信し、果たして該当項目を引き当てた、という次第であります。

 該当項目について、一読した全体の印象は、小谷氏および氏を包括するフェミニズム評論全般を「ニューアカデミズム」の範疇に押しこめつつも、最終的には小谷氏個人を批判、非難するという印象を受け、それは他の項目および当該書籍全体の体裁とは異なっているように思われました。ただ、該当項目から感じられる挑発的な姿勢については、過去に脚本家の石堂叔郎と映像作家の松本俊夫が展開した論戦などを目にしたことがあり、また当時、自身のごく身近でライターの鶴岡法斎と伊藤剛がスタンスの違いをめぐって論戦をしていたので、個々のフィールドの違いからこうした文章が書かれることも不思議なことではないとして、個人的には納得していました。加えて、該当項目の最初にある「山口さんちのツトムくん」替え歌についても、小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言』などで、フェミニズム批判をこのように低俗なレトリックで表現するものは多く目にしていたので、該当項目全体のイメージを強調しているという印象以外は特別な感慨を抱きませんでした。

 ただし「そもそも小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知で」から始まる一段落(以下、該当箇所と表記)については、大きな驚きを感じました。小谷氏について私は『聖母エヴァンゲリオン』で最初にそのお名前を拝見したわけですが、巽氏についてはそれ以前の1980年代初期にSF雑誌『スターログ』その他で文章を目にしており、以後氏の文章を見つけると注意して読んでいたからであります。巽氏には英米文学論を通してフェミニズムに触れる文章や『サイボーグフェミニズム』のような訳著書もあることは私も承知しており、その点で小谷氏のフィールドと近い地点で活動していらっしゃる方という印象も私個人としては否めなかったので、小谷氏の人となり、および活躍を熟知しない無責任な一読者としては、そうした素地を持った上で小谷真理が巽孝之のペンネームが「周知」だと知らされると同一人物論は容易に信じ得るものになります。

 因みに「無責任な一読者」と特に強調するのは理由があります。ここ十数年来、SF文学や映像といったサブカルチャーを受容する読者や観客の間では「事情通」でなければ、受け手として失格であるという傾向が支配的です。これは所謂「おたく」と呼ばれる文化現象のことを指すわけですが、例えば映画を見るならその製作現場やそれを取り巻く業界全般まで予備知識として含蓄していなければ良い観客(または読者)ではない、というものです。現代の読者あるいはファンと呼ばれる人々は、そうした環境で読書をするわけですから、該当箇所にあるような「周知」がどんなに強迫的であり、説得力を持って読者に迫ってくるかは、じゅうぶんご理解いただけると思います。

 また、これに続く「ペンネームを使うなら少しは書き方を変えればよさそうなもんだが(中略)まったく同じなのが情けないんだが」という部分は、特に私が「巽孝之と小谷真理は同一人物」と誤解する根拠になった部分として強く主張いたします。と言いますのは、この部分はペンネームを複数使用している著述者の技術的な貧困さを批判しているように受け取られたからであります。

 良く知られているところでは、例えば純文学を活躍の場にしていた色川武大が麻雀小説を書くにあたって阿佐田哲也というペンネームを別に設けたケースがありますが、この事例に見られる通り、ペンネームを複数使用するというのは、通常、既に自己の作品世界を確立した著述家が別のジャンルに挑戦する場合になされる行為であり、それは多少なりとも本を読んだことのある人間ならすっかり常識として認識していることであります。然るに、該当箇所は、そうした技術を持ち得ない巽孝之を非難したものとして私は読み取りました。

 更に「これはこの種の現実から遊離した似非アカデミズムに共通した傾向」という部分では、以上の経緯から、該当項目の筆者(つまり被告・山形浩生氏)は、タイトルにも使われている「ニューアカ(デミズム)」に依存するだけで、自身の著述技術を磨くことをしなかったお粗末な著述者は、結局ペンネームを複数持っていてもそれを活用することが出来ないと語っているのだと、私は了解いたしました。加えて、該当項目の後半部分で「小谷真理には(というか巽孝之には)」と再度強調されていることによって、前半で出された小谷真理は巽孝之であるという情報は、いよいよ私の中で真実味を帯びてくるようになったわけです。

 以上のような経緯から、私は該当項目のうち、該当箇所の最初の部分、すなわち「小谷真理が巽孝之のペンネームなのは周知」を事実として了解するに到りました。

4.誤認識を訂正されるに至った経緯


 その後の平成九年十月二十五日、私は評論家の永瀬唯氏より該当項目がまったくの虚実であることを告知されました。ここではそこに至る経緯を書きます。

 先に書きました通り、当時私は留学生活を終え日本に帰ってきたばかりでしたので、日本の文化状況の変貌に驚かされ、それを追いかけるのに必死になっておりました。そうした中で平成七年よりテレビ放映されたアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』がエヴァ現象と呼ばれるほどのブームになっていたのには特に驚かされ、あれこれと事情通の人に話を聞いたり、本を読んでいたりしておりました。そうしているうちに、知人で戦記もののライターをやっている松代守弘氏より、新宿のライブスペース「ロフトプラスワン」でエヴァンゲリオンのことを映画という切り口から話すトークショーをやってくれないかと頼まれ(松代氏は当時、同スペース運営スタッフの一人)、私一人でそれをやるのはあまりにも重責に感じましたので、以前アテネフランセ文化センターのシネクラブでお世話になった、評論家でジャーナリスト専門学校の上野昂志氏に相談し、同校で講師を務めている永瀬氏をご紹介いただきました。

 上野氏から電話番号をお聞きし、十月二十五日、初めて永瀬氏に連絡いたしました。夕方六時に一度電話しましたが御留守でしたので留守電に自分の電話番号などのメッセージを吹きこみましたところ、夜の十時ごろに永瀬氏より御電話をいただきました。

 この時の電話は本来トークショーの進行打ち合せをするためのものでしたが、アニメーション論からSF、おたく文化に至るまで話題が飛び、電話を切った時には午前四時を回っていましたので、約六時間に亘る長電話となりました。私は親の家に同居しており、電話を切る直前に、その日ゴルフに行くという父が早起きしてきて叱られましたので、時間的にはこれでほぼ正確だと思われます。

 ただし、これほどまでの長電話になったのは、話の途中で私が当時読了したばかりの当該書籍の話題を出し、当該項目について話したところ、永瀬氏がそれを否定し、話が進むうちに、永瀬氏がやや激昂ぎみになってきたからであります。

 そのときの経緯は以下の通りです。

 アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の話題から、小谷真理氏の著作『聖母エヴァンゲリオン』の話も出ました。

 なぜ小谷氏の同書の話題が出たかと言いますと、先に述べたとおり当時に至るまでにエヴァ現象と呼ばれるブームがあり、関連本の出版も盛んに行われていたわけですが、その中でも同書は、女性が書いたこと、フェミニズム評論の視点で作品を分析していること、そして関連本の大部分を占めていた謎解き的な体裁から離れて広く現代文化状況の中で作品を捉え解題していること、以上三点から非常にユニークな書物として注目されていたからです。更に、個人的には、謎解き本を別にして当時アニメーションの作品論だけで一冊の単行本になり、マガジンハウスという大手出版社から刊行されたことも奇異に感じられたものでした。以上の点が背景となり、当日も、永瀬氏との話で同書の話題が出ることはごく自然の成り行きだったわけです。

 同書については、俗にエヴァ本と呼ばれる関連本で、なかなか客観的に書いた本がないという会話から話題が移行しました。同書の話題の最初で永瀬氏は、フェミニズムの立場からエヴァンゲリオンだけではなくそれを取り巻くアニメのレトリック全体にまで言及した小谷氏についてどう思うかと聞いてきたと記憶しております。永瀬氏は、個人的にはフェミニズムについてもうすこし、こういうふうにつっこんでほしかったと言いました。

 そこで私は、その少し前に読んで驚愕した当該書籍の該当項目につ いて、確認を取る目的で永瀬氏に

 「著者の小谷真理は、巽孝之のペンネームだったんですよね、それを聞いてびっくりしました。ショックです」

 と言いました。該当項目を読むまでは、私も永瀬氏とほぼ同じように小谷氏の著書を評価していたわけですが、該当項目を読んで以来「男性が女性名で書いた」ということと、それが以前から愛読していた巽氏によるものだということで、少なからず小谷氏の著書に嫌悪感と抵抗を抱いていたものですから「ショック」という言葉が出たわけです。すると永瀬氏は

 「僕はあの夫婦とは個人的な知り合いでよく知っている、何故そういうこと言うのか」

 と驚いて切り返してきました。そこで私が

 「えっ? でも『オルタカルチャー』という本にそう書いてありましたよ」

 と指摘すると、永瀬氏は、例えば小谷氏の評論領域にある「やおい」という事象は巽氏にとってはまったく預かり知らぬものである、など両人が別人である証拠を詳しく提示しはじめました。

 永瀬氏は巽、小谷両氏と面識があり長年交友関係にもありますので、個人的な関係に基づく評価から、小谷氏が巽氏と別のところでどのような言論、著作活動をしているかに至るまで逐一紹介してくれ、特に小谷氏のスタンスを説明した部分で、私もようやく小谷氏が巽氏とは別人であると確信することが出来得るようになりました。なお、平成十年五月に同じロフトプラスワンで永瀬氏の著書『ザ・デイ・アフター・エヴァ』の出版記念イベントが行われた際、私もこの本に参加した関係で出席したのですが、そこで初めて小谷氏ご本人を永瀬氏から紹介されました。以上が、私が誤認を改めるに至った次第です。

 因みに、当時永瀬氏はまだ当該書籍の存在を知らず、また該当項目も無記名で書かれたものでしたので私も山形氏の存在を知らなかったので、この時には該当項目をだれが書いたかということは話題に上りませんでした。

5.誤認をした背景


 なお念の為に3.における所感をもとに補足しますと、この時の会話において「著者の小谷真理は巽孝之のペンネーム」と私が言ったのは、巽孝之&小谷真理という二人の著作者がいて、巽孝之が小谷真理の名前を使って書いている、つまり巽孝之が小谷真理のゴーストライターだというニュアンスに基づくものではなく、小谷真理という人は実在の人物ではなく、巽孝之という人物が架空の女性のペンネームを使っているという意味合いを持つものです。こうした認識を持つというのはある意味で奇異に思われるかも知れませんが、橋本治や宇能鴻一郎のように男性作家が女性の一人称で物語を書くことは往々にしてあります。

 また、男性でもまったく女性の視点と感覚で作品を作ることができるということを証明しているものとして、漫画家・立原あゆみ氏の創作物が挙げられます。立原氏が七〇年代に少女漫画誌に発表した『麦ちゃんのヰタ・セクスアリス』は、少女が憧れる青年像を主人公にして、同様に少女が憧れる男性の青春像のステレオタイプを提示してそれを男性作家が描くという、非常に複雑な構造を持っています。現在でも、立原氏の話題が出ると女性ではなかったのかと知って驚く人は多く存在します。さらに立原氏が築いたこのような作法を踏襲する作家も多く輩出していますから、男性でも「女性にしか書けない作品」を作ることは今やほとんど当たり前の風潮となっていると言えます。

 従って、『聖母エヴァンゲリオン』というフェミニズム的な著作についても、それを男性が書いても不思議ではないだろう、そういうことも起こり得るだろうと認識することは決して異常なことではない、現代の文化状況を鑑みればむしろごく自然なことであります。

 私は自分が裁判当事者間の立場について無学だった故に、小谷氏を巽氏のペンネームの一つであると誤認したことの自身の愚かさを決して弁護するものではありませんが、平安時代の『土佐日記』に始まり上記した事例に至るまで、作品上で作者の性別を変える事例を数多く目にしておりますので、それらの蓄積の上に立てば、山形氏の書いたことを事実として自然に受け止めても何ら不思議ではないことをご了承いただけると幸いに存じます。

6.むすび


 最後に、個人的な感慨を述べさせていただくことをお許しください。

 本件で取り上げられている山形氏の文章について、同氏はレトリックであり「わかる人が見れば事実ではないとわかるはず」と仰っていますが、これは文章を生業とする同業者としては、まったく信じられない言動のように思われます。

 私信であるならまだしも、不特定多数の人間に向けて発信される商業的出版物の世界において、特定個人のプライベートな部分に関するフィクションを非常に分かりにくい形で掲載することについては、率直に言って山形氏の常識を疑わざるを得ません。誰にでも分かる内容にし、裏づけの取れていない事象は書かないということが、オルタカルチャー日本版のような情報書籍の基本的スタンスだということは同書の他の部分を見れば一目瞭然であるわけですが、山形氏の姿勢は(もしも氏の言うとおりに書かれたものだとしたら)その中にあって明らかに異なっていますし、山形氏の言葉からは、この文章が、インターネットの掲示板に掲載される、それこそ「わかる人だけわかる」ぶん分かる人しか見ない個人的なメッセージと同じような印象を受けます。

 ただし、そうした文章が掲示板ではなくオルタカルチャーのような体裁の書籍に掲載される以上、私のようにその頃当事者と一面識もなかった一般読者としてはそれを事実として受け止める可能性はあまりにも大きいです。また、こうした書籍の読者は大部分が当事者と面識などあるわけではない、つまり「わかる人」ではないので、そうしたスタンスで一般書籍に文章を掲載されるのはプロフェッショナルにあるまじき甘えと感じられて、今となっては非常な不快感を覚えます。

 詮索をしてしまえば、男性著作者が女性の視点に立ってフェミニズム評論を書くなどあり得ないから、該当箇所の記述は誰にでも嘘と判るはずという目論見が、山形氏にはあったのではないでしょうか。しかし、5.にて指摘したとおり、今や作品上における性差の境界線は非常に曖昧になっておりますし、私も仕事で扱う対象(アニメーションやプラモデルなど)から男性著作者と間違えられることが往々にしてありますので、そうした風潮から見るに、該当項目の文脈からそれをフィクションと認識するのは非常に困難であります。

 以上述べました通り、私を始めとして、当事者間のプロフィールや本人そのものを熟知しない一般読者にとって、該当箇所の記述はまず大部分の者が「小谷真理は巽孝之のペンネームである」と信じ込んでしまうものであります。その点において関係箇所は、事実誤認の危険性を大きく孕んでいるものであることを、ここに実際に起こった事例の報告とともに陳述させていただきました。

平成十二年七月二十三日

文筆業

水民 潤(玉蘭)




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