1月 3

人生の後始末

2016.1.3   の メモ

断捨離やら片付けコンサルタントやらが大ブームの消費社会ニッポン。モノを溜め込むことをよしとしない昨今、なんでもかんでも溜めたがる(ように見える)おたくは肩身がちょっとせまい。部屋にヒトを通したときの、あの哀れみのこもった視線。

……あいたたた。

い、いや、これは単に溜め込んでいるのではなく、人生に必要なんだってば。

そんなオタク気質の危機について、他の作家の方々はどうかなーと思い、文藝作家協会のニューズレターに寄稿してみました。2010年春のことです。

 

 

▲  人生の後始末  

 

 

親の介護が始まって四年。本人たちのお世話はなんとかなっているんですが、なんともならないのは、ほぼ全生涯にためこんだお品の数々。それぞれのお値段はいざ知らず、人生そのものを物語るような物品群に直面し、捨てるに捨てられないけど、捨てなければなんともならない苦悩を味わってます。いや、タイヘン。

この間、我が家の親戚にあたる老齢の切手マニアが亡くなられました。奥方は、膨大な切手のコレクションを抱えて、どうされたのか。

ノンケの奥方は、まずそれら全部を捨てようとなさいました。

「わたしはずっと、夫の趣味に苦しめられて来た、なんだかよくわからないうえに、さわるな、捨ててはいけないというので、じっと耐えて来たけれど、このせいで、部屋はせまく、そうじもできず、汚くなってしまって、この家もずうっと住みづらかった。だからいっそ捨ててしまいたい」

彼女の言い分を聞いて、激昂したのは長男です。

「そ、そんなもったいない! あげるなり、展示するなり、売るなりしたらどうなのか?」というんですね。

かくして、親子は口論になりました。この期に及んで、奥方はきっぱり言い放ちました。

「だれがそんなことする時間があるのか」と。

老い先短い自分の時間を、なんで今まで自分を苦しめて来たものに、さらにささげなければならないのか、と。

こんなことを言われたら、そりゃー、打ち返すのは難しい。長男はなんとか論陣をはろうとしましたが、査定だなんだかんだの面倒を見る時間的余裕も、置いておくスペースもありません。

ところが、しばらくして、彼女は夫のコレクションの行き先を見つけました。

夫の趣味は切手でしたが、彼女自身の趣味は、たくさんの友達と、しょっちゅう手紙のやりとりをすることだったのです。

郵便を送るなら、そうよ、ここに切手があるじゃない。

こんなわけで、一枚ン万円はするであろう切手も、額面通りの金額で、どんどんどんどん使われているのです!   ………たった今も!

長男は怒ったのですが、しかし捨てられてしまうよりは、ずっとまし。

これを茶飲み話で聞いたとき、

「そりゃ、あっぱれねー、わたしが切手マニアなら、彼女と文通を始めるかも」

なんて言ってたのですが、今はそこの家から送られてくる郵便物をひそかに楽しみにするようになった……というのはナイショです。

(2010.4.21)

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12月 29

アングラ・カルチュアとふたつの知

 

▲ アングラ・カルチュアとふたつの知 ▲

〜映画『イディオッツ』によせて〜

 アンダーグラウンドのカルチュアには、いうまでもなく独特の知のかたちがある。

ひとつは、反体制的身振りに彩られた知。政治結社や文学同人、ロックンロールや魔女集会まで、メインカルチュアとは異なる偏愛文化のサークルは、正統的知からはずれた独特の視点から世界を批判的に観察していることが多い。斜に構えて鋭く世情を斬ってみせる、えらくカッコいいノリがそこにある。自分たちは既成の概念や価値観に縛られていないという矜持のような気概があり、それがアングラ・カルチュアをささえる知の方向性のひとつをなす。アングラ・カルチュアにある洗練された知。それは、シニシズムに取り憑かれた、きわめて第三者的な知のありようだ。

もうひとつは、そうした第三者的な視点ではなく、あくまでアングラという場所に没入し、自らの心の中にある逸脱性をひたすら外在化してカルチュアを形作る知のかたち。いっけんバカそうなのだが、ひたすら無骨ながらも外在化していくうちに、それはアングラのカルチュアそのものをなす、もっとも求心性のある作品に結実する場合が多い。

前者を評論家的、後者を表現者的な知のありようと考えてみよう。アングラ・カルチュアはふたつの知の生々しいぶつかりあいによって、独特のダイナミズムを作り上げていることが窺える。

映画『イディオッツ』を見てつくづく思ったのは、どのアングラ・カルチュアにも共有するであろう構造を見事に体現していることだった。作中のイデオッツというグループは、まさにそうした典型的なアングラ集団の雰囲気を持っている。イディオッツは、世間から一見大事にされていそうで、実は排除されてしまう人々への批判的姿勢から生まれたグループだ。

一味の中心人物ストファーは、典型的な反体制的性格の男である。シニカル理性の持ち主でアングラ結社の隆盛と崩壊の導き手。彼は世俗の矛盾を突き、批判的知性をくりだし、たいへんカッコいい人物なのだけれど、その反面、賢すぎて世の中全部が見えすぎたような気分になってしまい、ものすごく虚無的に見えることが多い。批判を繰り返していくうちに、どうしても構造上の矛盾につきあたり、しかも、矛盾を含むカオスな状態に弱いというナイーブな様子を見せる。

一方偶然からイディオッツたちに出会い、内的必然から行動をともにするカレンは、カルチュアでの創造的な部分を引き受ける人物としてに描かれている。彼女はイデオッツの人々が志向する考え方を観察し吸収しわがモノとした上で、徹底的にそれを表現してみせる。

いったいどちらがアングラという場を必要としたのか、どちらがアングラ・カルチュアをよりエンジョイしたのだろうか。それも、魂が潤うほどにーー。

正統から外れた、いわばアングラ独特の無知の知を、鋭角的に構造化してしてみせた本作品は、わたしたちがふだんなにげなく文化(カルチュア)と口にしている創造的営みを根底から再考しなおす、みごとなまでに知的な作品だ。

(2001年3月)

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12月 25

もしもこの世に男がいなかったら

2015.12.25の前書き 

〈婦人公論〉が2008年にリニューアル一〇周年を記念して、なんと「それでも男は必要ですか?」という過激な特集を組んだ。3月22日号である。編集部は、なんか堪忍袋の緒が切れることでもあっちゃったんだろうか? 

 それはともかく、とても怒りとは縁遠そうな可愛い担当さんから「小谷さんはSFですから、いっそ世界から男が消えちゃったらどうなるか書いてくださいね」と依頼された。

 びっくりぽんや〜、なんでどす〜?? と2015年秋以降でなければ受けないギャグのような気持ちで宇宙を仰ぎみながら書いたのが、下記のエッセイである。

 

 

   もしもこの世にがいなかったら 

 

 現代社会をサバイバルしている心ある女が、表立ってであれ、心密かにであれ、生涯に一度は考えること。それは、「もしもこの世に男がいなかったら」という空想だ。

 男にはまったく嬉しくない発想かもしれないが、女にとって男とは、時々、いやしょっちゅうか、いやいや正確に言うなら、男とつきあうその時間に比例して、えらくめんどくさい存在だ。

 いまだって、テレビではスーパーチューズデーが延びました、なんてニュースを流している(註 すいません、2008年の話しです)。いったい、ヒラリーのどこがまずいのだろう?  アメリカ初の女性大統領の誕生より、やっぱりアメリカ初の黒人(男性)大統領のほうがいいんだろうか。なんだか、人々がヒラリーの後ろに夫の姿を見ているように思えて心が痛くなる。まあ、そういう黒い被害妄想に取り憑かれたときなどは、こういう空想——いや妄想かーーは多少の慰めにはなるかもしれない。

 ——もしもこの世に男がいなかったら、と。

 仮に、人類ならぬ男性が、なんらかの原因でこの地球上から絶滅してしまったら、世界はどんなふうになるのだろう? 

 今は女もいろいろ科学力を駆使できるし、技術的にも政治的にも経験者が増えているので、当座のところは、あんまり心配はしていない。

 「しかたないわねぇ」なんてぼやきつつ、実務的に対応する、そういうクールな女がかなり多そうだからだ。案外戦争のない、平和な世界が訪れるかも、というお気楽な夢に浸れる所以だ。

 いや、お気楽な夢で終わらないか。なぜなら、女には、男社会でふりまわされてきた、その長い歴史による処世術が蓄えられているからだ。

 身内の男の都合で、次々見知らぬ男に嫁がされて生命の危機にさらされた戦国時代から、権威をふりかざす男たちのトラブルの後始末をいきなりおしつけられて閉口する現代女性まで、女は、基本的に臨機応変。すばやく体勢をたてなおす技を身につけている。もちろん、それって、単にあきらめが早く、かつ、振り回されるぶん選択肢も多い、というトホホな性質に起因するのだが、それって緊急時にこそ役に立つ……はず。

 

 タネさえあれば …… 男たちのいない生殖

 

 男がいない世界で、一番気になる問題は、やっぱり生殖だ。つまり妊娠・出産・子孫繁栄。この点、凍結している精子さえちゃんと確保できれば、そしてそのタネが、ちゃんと受精卵になるべく機能してくれれば、人工授精は有効だ。

 基本的に人工子宮を開発するというのは非常に難しいが、採集したタネを使って人工授精したり、受精卵の遺伝子をいじったりというレベルは不妊治療など現在の医療ではすでに使われているし、バイオ関係には、助手として酷使されている人々を含め、意外に女性科学者率が高い。

 だから、女同士で暮らしていて子供が欲しくなったり、あるいは個人的に子供が欲しくなったりしたら、手続きをとり、うまくすれば子供を得ることができる。さらに備蓄されたタネが尽きる前に、クローン技術を開発すれば、遺伝的にも男の遺産(タネちゃん)にまったく頼らず絶滅はまぬがれそうだ。

 とすると、生殖に関して言えば、男だけで生き残った場合より、女だけのほうが圧倒的に有利。男たちが女だけで仲良くしていることにあれほど目くじらたてるのは、男なんていなくても平気だという真実に、実は気がついて脅かされているからなのかもしれないね。

 それにしても、男抜きの家族制ってどうなるんだろう?

 女性同士で結婚したり、同棲したり、合宿型所帯(グループ生活者?)になったり、独身同士だったり。女性同士の愛情や友情のかたちは、たしかに男抜きなら、さまざまな形態が可能だし実行されるだろう。なにせそれで文句をいう男はいないわけだし。

 これだって、歴史的に見ても例がないわけじゃない。

 男たちが戦争に行ってしまって、残った女たちが共同で村のやりくりする、というハリウッド映画があった。タイトルは『コールドマウンテン』(2003年)。

 南北戦争がはじまって、男が徴兵されて行ってしまったあと、美人女優ニコール・キッドマン演じるなにもできない貴族のお嬢さんと、ちょっと太めのレネー・ゼルウィガー演じる下働きのたくましい女性とが、手に手をとって、家をきりもりする。畑を耕し、家を片付け、食料を確保し、子供と老人の世話をし、村の女たちと協力して、生活を維持していく。お嬢様は見る間に緊張感漂うやり手になり、その相方はお嬢様から貴族の知性を吸収し、知的になっていく。女たちの生活は、細々とはしているが見るからに清潔で可愛らしく活況を呈していて、冬場も温かく、そして美しい。戦場の夫を待つ孤独でけなげな妻の細腕繁盛記という以前に、何より女の共同生活は楽しそうだった。あれって女性のユートピア願望だったのかな。

 

 拡大する母親問題とは?

 

 ただし、そういうやや牧歌的な女たちの共同体が長く続いていくと、母子関係のほうに問題が出てきそう。核家族制がダントツの現代だって、密室化した家族内部で、母親と娘が熾烈な闘いに陥るという例は数多い。

 特に火種になりそうなのは、母親問題。

 前述した生殖技術だけど、女性の子宮に直接タネを注入するやり方であれ、試験管の中で受精させて受精卵を女性の子宮に挿入するやり方であれ、人工的な生殖は、母親の種類を増やす。

 どういうことかというと、簡単に見積もっても、遺伝子上のおかあさん。代理母(つまり実際孕んで生むおかあさん)、子供を育てるおかあさんと、理論上三人の母が誕生する可能性がある。新たに生まれるのは子供だけじゃない、母親もだ。

 しかも、人工授精のむずかしさは、とにかく受精卵が着床するかにかかっているわけで、稀少な成功例は、まさに特権的存在ということになる。

 一九八〇年代中葉、アメリカで、人工授精でうまれた女の赤ちゃんを、代理母と育ての母が奪い合うという、(通称)ベビーM事件が発生した。これにならえば、子供がほしくて仕方のない女性と、限られた成功例である代理母と、卵子提供者である母親が、稀少な子供をめぐって取り合って大騒動に発展する、という大岡越前もビックリの事態が予測される。

 母親たちが、子どものからだをつかんで引っ張りっこし、泣いている子をみかねて一番に手を離した人物が本当の母——というあの有名な大岡越前の裁定は、はたして未来世界では有効になるのだろうか?

 てな具合で、子供が少ない世界での親子関係からは、母子密着にしろ、あるいは反対に母子関係希薄化にしろ、けっこうな難問がでてきそうだ。未来の作家だったら、グッとくることうけあいの文学テーマの登場だ。

 たとえば、「母を捜して三千里」は、遺伝子上の母親をさがす物語へ変わり、不仲な三人の母の間で子供が悩み苦しむフィクションが登場したり、あるいは母と娘と姉妹関係がどろどろに炎上する未来版「女坂」の世界が展開してしまうかもしれない。だれが本当の母親かをめぐって殺人事件が起きたり、女同士の愛と葛藤が、新しい女性文学の潮流として多くの文学賞を受賞し、女性読者の興奮をさそうーーなーんて、ちょっと内容をのぞいてみたいものだけど、考えただけで、トラウマになりそうな気がしてきた。ウチのオソロシイ母親のことを考えるだけでも、心が痛すぎる。

 

 男抜きのセックスは

 

 だがもうすこし、男によせて考えてみた場合、たとえばセックスについてはどうなのか。男性との性生活がまったくなくなってしまった場合、理論的には性愛における男性中心的価値観が、ぐぐっと女性中心主義に偏向をせまられる。

 現代のセックスに関する情報は、まず「男性がどう思うか」、あるいは「どう感じるか」という方面をくぐりぬけたところからしか記述されないから、男のいない性世界の話題は、かなり大幅な変更が予測される。

 で、どうなるかって?

 女性たちが大好きな純愛で対等なパートナーシップが主流に躍り出てくるいっぽう、ヴァギナ中心主義的価値観がクリトリス中心主義になったり、ナチュラルなセックスとディルドーなど性器具のテクノロジーを駆使したやり方が論争になったり。どちらにせよ、女ばかりの世界なんだから、男の目を気にしてはばかられていた話題が一気に白昼堂々オープンにされることうけあいだ。実技も華々しくなるだろう。ひょっとすると、男抜きの方が女の悦びを気軽に堂々と追究できるかも。これはこれで痛快だ。

 ハーレクィンロマンスの世界は、ボーイズラブの世界以上に懐古趣味の対象になり、時代を下ると文化財にも指定される。なにせ男性が存在しないから。

 あ、でも、ボーイズラブの世界は、もともと現実にいるとは思えない男性が登場人物なのだから問題はないとして、現在のかっこいい男性アイドルたちがこの世から消えてなくなる、というのは盛大に寂しい。あれに匹敵するセクシュアルな代替物、ないだろうなー。

 

 オスたちのたったひとつの冴えた生き方

 

 このほかにも、国会へ行っても親父議員は存在せず、あの下品で耳障りな野次も飛ばず、男性トイレも消滅。夜遅く歩いていても、へんな男に声をかけられたり、変質者に追いかけられることもないし、電車で痴漢に遭う事もなく、女性専用列車も消滅。夫による家庭内暴力もなく、父親や祖父や叔父による幼女虐待も消滅。レイプ殺人もなく、幼女誘拐、拉致監禁などの性犯罪も激減(同性同士でありえるか? わからん)。生理休暇・出産休暇・子育て休暇・更年期休暇が大手をふって与えられ、女の理由で休みをとったからといって、社内でいやがらせを受けることもなくなるetc.……などなど男によって見舞われていた数々の災いのタネは消滅する。

 しかし、しつこく振り返ってみると、ないないずくしの女オンリーワールドは案外馴染み深い。フェミニストたちの集会。同性愛者のダンスクラブ。昼時間帯の観劇。女性病棟。女子校。女ばかりの老人ホーム。つまりは、ああいう世界の延長になるというわけね。

 そんなふうに、現在の遺産で食いつなぐ、男性絶滅後の未来社会といった発想は、男たちに尽くしすぎたり、男を甘やかしてしまったり、男にだまされたりした過去の苦い教訓をいかせるぶん、なまあたたかい優しさに満ちていて、しっぺ返し的にはなかなか愉快な気晴らしになる。

 さて、ここらでさら想像力の翼をのばし、そもそも男という存在自体が最初からなかったら、どうなっていたかと、ちと考えてみる。うーん。難問だ。隣の芝生はどうなっているだろう?

 自然界には社会を築く蟻や蜂がいる。どういうわけかオス率が極度に低い連中だ。女王蜂が君臨し、あとはさまざまな機能の働き蟻・働き蜂が暮らしている。フランスの作家ベルナール・ウェルベクがそういった『蟻』の世界を舞台にしたSFを書いていて驚愕したことがある。

 何に驚いたって、女王蟻の一党独裁国家だとばかり思っていたのが、蟻が必要に応じてローヤルゼリーでだれでも女王に変身できるという事実。そう、蟻は基本は平等。役割によって後天的にいろいろ変わる。あれって、理想の完全メス型社会なのかもしれない。そんなふうに考えた。

 でも、そのメス型社会ですら、実は極小化されたかたちで雄は存在するーーせざるを得ない。遺伝子のヴァリエーションを豊かにするというただそれだけのために、 愛玩されメスに愛されるべくオスが存在する。

 とすると、雄たちが消えてなくならないたったひとつの冴えたやりかたって、ひたすら魅力的になってメスに愛される存在になることだけか。あのオソロシイ真実に、人類のオスどもが、もちっとちゃんと気がついてくれれば、このわたしだって、こんなおバカな妄想に耽る必要もないんだがなー。■■■ 

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12月 25

2003年新春随想

 

古いデータを整理していたら、2003年1月北日本新聞に掲載された短文「新春随想」が出てきました。

復刻公開します。

 

 

   2003年新春随想    

  

 日本ペンクラブ女性作家委員会では、九・一一同時多発テロ事件以降の状況に鑑みて、2001年より「女性と戦争」をテーマにシンポジウムを開催してきた。

 2002年末には、文部科学省が4月より全国の小中学生に無料で配布している道徳補助教材「心のノート」をとりあげた。凶悪犯罪の低年齢化があるから、こういう道徳教育は必要だと言われる一方、愛国心を強調する戦前の修身の教科書にそっくりと危惧する声もある。それを、きれいごとの婦女子教育に泣かされてきた女性の視点から吟味してみようというわけだ。

 浮かび上がってきた一番の問題点は、こうした道徳の本を国家が総計11億円かけて制作し、国家検定も通さずにすでに配布されてしまっているという驚愕の事実である。

 シンポジウムに出席した哲学者の高橋哲哉氏も、「心のノート」の問題をいち早くとりあげた著作『「心」と戦争』(晶文社)のなかでこんなふうに指摘している。軍備や法律が整っても民意がなければ、戦争にはふみきれない。「心のノート」は、将来を担う子どもたちに戦争へ向かってもよしとする心を準備するためのものではないか、と。

  このところ、イラク派兵にいたる経緯を見ていると、議論も分析もなく、なかば知らないところで法案が通過し、憲法と矛盾をきたしかねない事態が多すぎて、その流れには不安が一杯だが、それでも国民の半数以上がイラク派兵に反対し、いまだ慎重論も強いことこそが唯一の頼みかと考えていた。が、「心のノート」は将来、その最後の防波堤もうちくだいてしまうのかもしれない。そうならないためにも、正確な情報と誠実な議論が必要だ。平和な今ですら、女性をめぐる社会的立場を改善するのがいかに難しいかを骨身にしみているからこそ、人の命にも「法」にも、謙虚にのぞみたい。人の生涯は、けして十把一絡げに、数字になどは回収してはならないと考える。

  シンポジウムに先立つ11月の末、メキシコシティで開催された国際ペン大会の女性作家委員会でも、それは痛感した。カジキスタン系やクルド系の女性詩人や、故国もなく今はロンドンからインターネットを通して、世界中に離散しているアフリカ系へネットワークを呼びかける黒人女性作家などの報告が相次ぎ、戦火の直撃がどれほど怖いものであるかを実感したのだ。「平和」への飢えという言葉が思い出される。

 ネットワーキングは最重要課題だが、世界の言語があまりに多様なのも事実だった。フセイン政権のときに家族を殺されベルリンに亡命したクルド人女性詩人がクルド語で、ロンドンに亡命している同じクルド人の女性に語り、彼女はそれを英語で通訳し、一方日本人のわたしは英語で答え、カブールに住んでいるアフガンペンの女性もまた英語で話し、それはスペイン語に通訳されて南米の作家に伝わるといった具合。国際語と言われている西欧のことばと土着語がせわしなく飛び交うなか、にもかかわらず、わたしたちには確かに使えることばがあり、議論する場も辛抱強さも尊重されるべきだという、女性たちの穏やかな熱気があった。

  帰国後、政治学者のC. ダグラス・ラミス『日本は、本当に平和憲法を捨てるのですか?』(平凡社)を読んだ。ラミスは、日本の平和憲法の特殊性を指摘している。法律文なんて味気ない政治的な建前、つまり約束事にすぎないのだろうか。そうではないと思う。たとえば、わたしはそれを文学のひとつ、二十世紀後半以降極東の島国で花開いたテクストのひとつだと考えたい。

  「殺すのをやめる」のに効力を発揮した不思議なテクストだと。ラミスの語ることばが詩のように響き、これもまた簡潔で美しいと気がついたからだ。今年は、奇しくも日露戦争開始後百年目にあたる因縁の年。だが、この百年のうち半分以上は、日本がひとつのテクストによって、平和の空間を達成できた奇蹟の時間でもあった。この特殊性を見直したい。そして、ながくねばり強い説得になっても、この個性を持続・拡大させることができるのではないかと願ってやまないのだ。

(北日本新聞掲載)

 
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9月 30

淑女の深情け

●   2003年新春随想

初出 〈北日本新聞〉  日本ペンクラブ女性作家委員会2003年シンポジウム「女性と戦争」によせて。

 

●  もしも世界に男がいなかったら

初出 〈婦人公論〉2008年3月22日号、特集 それでも男は必要ですか?

 

   わたしの組成はすべてSF

初出 わたしとSF@BOOK.asahi.com     2013.4.3

 

   アングラ・カルチュアとふたつの知  

初出 映画『イディオッツ』パンフレット 2001.3.23j.

 

 人生の後始末

初出  文藝作家協会会報 2010.4.10

 

初出  第55回日本SF大会閉会式 2016.7.10

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