12月 25

もしもこの世に男がいなかったら

2015.12.25の前書き 

〈婦人公論〉が2008年にリニューアル一〇周年を記念して、なんと「それでも男は必要ですか?」という過激な特集を組んだ。3月22日号である。編集部は、なんか堪忍袋の緒が切れることでもあっちゃったんだろうか? 

 それはともかく、とても怒りとは縁遠そうな可愛い担当さんから「小谷さんはSFですから、いっそ世界から男が消えちゃったらどうなるか書いてくださいね」と依頼された。

 びっくりぽんや〜、なんでどす〜?? と2015年秋以降でなければ受けないギャグのような気持ちで宇宙を仰ぎみながら書いたのが、下記のエッセイである。

 

 

   もしもこの世にがいなかったら 

 

 現代社会をサバイバルしている心ある女が、表立ってであれ、心密かにであれ、生涯に一度は考えること。それは、「もしもこの世に男がいなかったら」という空想だ。

 男にはまったく嬉しくない発想かもしれないが、女にとって男とは、時々、いやしょっちゅうか、いやいや正確に言うなら、男とつきあうその時間に比例して、えらくめんどくさい存在だ。

 いまだって、テレビではスーパーチューズデーが延びました、なんてニュースを流している(註 すいません、2008年の話しです)。いったい、ヒラリーのどこがまずいのだろう?  アメリカ初の女性大統領の誕生より、やっぱりアメリカ初の黒人(男性)大統領のほうがいいんだろうか。なんだか、人々がヒラリーの後ろに夫の姿を見ているように思えて心が痛くなる。まあ、そういう黒い被害妄想に取り憑かれたときなどは、こういう空想——いや妄想かーーは多少の慰めにはなるかもしれない。

 ——もしもこの世に男がいなかったら、と。

 仮に、人類ならぬ男性が、なんらかの原因でこの地球上から絶滅してしまったら、世界はどんなふうになるのだろう? 

 今は女もいろいろ科学力を駆使できるし、技術的にも政治的にも経験者が増えているので、当座のところは、あんまり心配はしていない。

 「しかたないわねぇ」なんてぼやきつつ、実務的に対応する、そういうクールな女がかなり多そうだからだ。案外戦争のない、平和な世界が訪れるかも、というお気楽な夢に浸れる所以だ。

 いや、お気楽な夢で終わらないか。なぜなら、女には、男社会でふりまわされてきた、その長い歴史による処世術が蓄えられているからだ。

 身内の男の都合で、次々見知らぬ男に嫁がされて生命の危機にさらされた戦国時代から、権威をふりかざす男たちのトラブルの後始末をいきなりおしつけられて閉口する現代女性まで、女は、基本的に臨機応変。すばやく体勢をたてなおす技を身につけている。もちろん、それって、単にあきらめが早く、かつ、振り回されるぶん選択肢も多い、というトホホな性質に起因するのだが、それって緊急時にこそ役に立つ……はず。

 

 タネさえあれば …… 男たちのいない生殖

 

 男がいない世界で、一番気になる問題は、やっぱり生殖だ。つまり妊娠・出産・子孫繁栄。この点、凍結している精子さえちゃんと確保できれば、そしてそのタネが、ちゃんと受精卵になるべく機能してくれれば、人工授精は有効だ。

 基本的に人工子宮を開発するというのは非常に難しいが、採集したタネを使って人工授精したり、受精卵の遺伝子をいじったりというレベルは不妊治療など現在の医療ではすでに使われているし、バイオ関係には、助手として酷使されている人々を含め、意外に女性科学者率が高い。

 だから、女同士で暮らしていて子供が欲しくなったり、あるいは個人的に子供が欲しくなったりしたら、手続きをとり、うまくすれば子供を得ることができる。さらに備蓄されたタネが尽きる前に、クローン技術を開発すれば、遺伝的にも男の遺産(タネちゃん)にまったく頼らず絶滅はまぬがれそうだ。

 とすると、生殖に関して言えば、男だけで生き残った場合より、女だけのほうが圧倒的に有利。男たちが女だけで仲良くしていることにあれほど目くじらたてるのは、男なんていなくても平気だという真実に、実は気がついて脅かされているからなのかもしれないね。

 それにしても、男抜きの家族制ってどうなるんだろう?

 女性同士で結婚したり、同棲したり、合宿型所帯(グループ生活者?)になったり、独身同士だったり。女性同士の愛情や友情のかたちは、たしかに男抜きなら、さまざまな形態が可能だし実行されるだろう。なにせそれで文句をいう男はいないわけだし。

 これだって、歴史的に見ても例がないわけじゃない。

 男たちが戦争に行ってしまって、残った女たちが共同で村のやりくりする、というハリウッド映画があった。タイトルは『コールドマウンテン』(2003年)。

 南北戦争がはじまって、男が徴兵されて行ってしまったあと、美人女優ニコール・キッドマン演じるなにもできない貴族のお嬢さんと、ちょっと太めのレネー・ゼルウィガー演じる下働きのたくましい女性とが、手に手をとって、家をきりもりする。畑を耕し、家を片付け、食料を確保し、子供と老人の世話をし、村の女たちと協力して、生活を維持していく。お嬢様は見る間に緊張感漂うやり手になり、その相方はお嬢様から貴族の知性を吸収し、知的になっていく。女たちの生活は、細々とはしているが見るからに清潔で可愛らしく活況を呈していて、冬場も温かく、そして美しい。戦場の夫を待つ孤独でけなげな妻の細腕繁盛記という以前に、何より女の共同生活は楽しそうだった。あれって女性のユートピア願望だったのかな。

 

 拡大する母親問題とは?

 

 ただし、そういうやや牧歌的な女たちの共同体が長く続いていくと、母子関係のほうに問題が出てきそう。核家族制がダントツの現代だって、密室化した家族内部で、母親と娘が熾烈な闘いに陥るという例は数多い。

 特に火種になりそうなのは、母親問題。

 前述した生殖技術だけど、女性の子宮に直接タネを注入するやり方であれ、試験管の中で受精させて受精卵を女性の子宮に挿入するやり方であれ、人工的な生殖は、母親の種類を増やす。

 どういうことかというと、簡単に見積もっても、遺伝子上のおかあさん。代理母(つまり実際孕んで生むおかあさん)、子供を育てるおかあさんと、理論上三人の母が誕生する可能性がある。新たに生まれるのは子供だけじゃない、母親もだ。

 しかも、人工授精のむずかしさは、とにかく受精卵が着床するかにかかっているわけで、稀少な成功例は、まさに特権的存在ということになる。

 一九八〇年代中葉、アメリカで、人工授精でうまれた女の赤ちゃんを、代理母と育ての母が奪い合うという、(通称)ベビーM事件が発生した。これにならえば、子供がほしくて仕方のない女性と、限られた成功例である代理母と、卵子提供者である母親が、稀少な子供をめぐって取り合って大騒動に発展する、という大岡越前もビックリの事態が予測される。

 母親たちが、子どものからだをつかんで引っ張りっこし、泣いている子をみかねて一番に手を離した人物が本当の母——というあの有名な大岡越前の裁定は、はたして未来世界では有効になるのだろうか?

 てな具合で、子供が少ない世界での親子関係からは、母子密着にしろ、あるいは反対に母子関係希薄化にしろ、けっこうな難問がでてきそうだ。未来の作家だったら、グッとくることうけあいの文学テーマの登場だ。

 たとえば、「母を捜して三千里」は、遺伝子上の母親をさがす物語へ変わり、不仲な三人の母の間で子供が悩み苦しむフィクションが登場したり、あるいは母と娘と姉妹関係がどろどろに炎上する未来版「女坂」の世界が展開してしまうかもしれない。だれが本当の母親かをめぐって殺人事件が起きたり、女同士の愛と葛藤が、新しい女性文学の潮流として多くの文学賞を受賞し、女性読者の興奮をさそうーーなーんて、ちょっと内容をのぞいてみたいものだけど、考えただけで、トラウマになりそうな気がしてきた。ウチのオソロシイ母親のことを考えるだけでも、心が痛すぎる。

 

 男抜きのセックスは

 

 だがもうすこし、男によせて考えてみた場合、たとえばセックスについてはどうなのか。男性との性生活がまったくなくなってしまった場合、理論的には性愛における男性中心的価値観が、ぐぐっと女性中心主義に偏向をせまられる。

 現代のセックスに関する情報は、まず「男性がどう思うか」、あるいは「どう感じるか」という方面をくぐりぬけたところからしか記述されないから、男のいない性世界の話題は、かなり大幅な変更が予測される。

 で、どうなるかって?

 女性たちが大好きな純愛で対等なパートナーシップが主流に躍り出てくるいっぽう、ヴァギナ中心主義的価値観がクリトリス中心主義になったり、ナチュラルなセックスとディルドーなど性器具のテクノロジーを駆使したやり方が論争になったり。どちらにせよ、女ばかりの世界なんだから、男の目を気にしてはばかられていた話題が一気に白昼堂々オープンにされることうけあいだ。実技も華々しくなるだろう。ひょっとすると、男抜きの方が女の悦びを気軽に堂々と追究できるかも。これはこれで痛快だ。

 ハーレクィンロマンスの世界は、ボーイズラブの世界以上に懐古趣味の対象になり、時代を下ると文化財にも指定される。なにせ男性が存在しないから。

 あ、でも、ボーイズラブの世界は、もともと現実にいるとは思えない男性が登場人物なのだから問題はないとして、現在のかっこいい男性アイドルたちがこの世から消えてなくなる、というのは盛大に寂しい。あれに匹敵するセクシュアルな代替物、ないだろうなー。

 

 オスたちのたったひとつの冴えた生き方

 

 このほかにも、国会へ行っても親父議員は存在せず、あの下品で耳障りな野次も飛ばず、男性トイレも消滅。夜遅く歩いていても、へんな男に声をかけられたり、変質者に追いかけられることもないし、電車で痴漢に遭う事もなく、女性専用列車も消滅。夫による家庭内暴力もなく、父親や祖父や叔父による幼女虐待も消滅。レイプ殺人もなく、幼女誘拐、拉致監禁などの性犯罪も激減(同性同士でありえるか? わからん)。生理休暇・出産休暇・子育て休暇・更年期休暇が大手をふって与えられ、女の理由で休みをとったからといって、社内でいやがらせを受けることもなくなるetc.……などなど男によって見舞われていた数々の災いのタネは消滅する。

 しかし、しつこく振り返ってみると、ないないずくしの女オンリーワールドは案外馴染み深い。フェミニストたちの集会。同性愛者のダンスクラブ。昼時間帯の観劇。女性病棟。女子校。女ばかりの老人ホーム。つまりは、ああいう世界の延長になるというわけね。

 そんなふうに、現在の遺産で食いつなぐ、男性絶滅後の未来社会といった発想は、男たちに尽くしすぎたり、男を甘やかしてしまったり、男にだまされたりした過去の苦い教訓をいかせるぶん、なまあたたかい優しさに満ちていて、しっぺ返し的にはなかなか愉快な気晴らしになる。

 さて、ここらでさら想像力の翼をのばし、そもそも男という存在自体が最初からなかったら、どうなっていたかと、ちと考えてみる。うーん。難問だ。隣の芝生はどうなっているだろう?

 自然界には社会を築く蟻や蜂がいる。どういうわけかオス率が極度に低い連中だ。女王蜂が君臨し、あとはさまざまな機能の働き蟻・働き蜂が暮らしている。フランスの作家ベルナール・ウェルベクがそういった『蟻』の世界を舞台にしたSFを書いていて驚愕したことがある。

 何に驚いたって、女王蟻の一党独裁国家だとばかり思っていたのが、蟻が必要に応じてローヤルゼリーでだれでも女王に変身できるという事実。そう、蟻は基本は平等。役割によって後天的にいろいろ変わる。あれって、理想の完全メス型社会なのかもしれない。そんなふうに考えた。

 でも、そのメス型社会ですら、実は極小化されたかたちで雄は存在するーーせざるを得ない。遺伝子のヴァリエーションを豊かにするというただそれだけのために、 愛玩されメスに愛されるべくオスが存在する。

 とすると、雄たちが消えてなくならないたったひとつの冴えたやりかたって、ひたすら魅力的になってメスに愛される存在になることだけか。あのオソロシイ真実に、人類のオスどもが、もちっとちゃんと気がついてくれれば、このわたしだって、こんなおバカな妄想に耽る必要もないんだがなー。■■■ 



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Posted 2015年12月25日 by mamalith in category "Essay